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1994年のダイエーと松永浩美 〜最底辺からのし上がった「本音で生きる男」〜


 今年も優勝争いを演じる福岡ソフトバンクホークス。だが、歴史をさかのぼれば前身の南海、ダイエーの頃、最下位争いが定位置の時代が長かった。1978から1997年にかけて、20年連続Bクラスという不名誉な日本プロ野球記録もつくっている。

 ところが翌1998年、オリックスと同率3位で連続Bクラスの記録が止まると、翌1999年にはパ・リーグを制覇し、日本一も達成。以降、Aクラスが常連のチームとなった。

 もちろん、いきなり強くなれるわけではない。ひとつのキッカケとして、1994年に西武から加入した秋山幸二の存在が大きかった、ともいわれている。だがこの1994年、もうひとりの男がダイエーに加わっていた。その男こそ松永浩美だ。

 「チームを救ったアウトロー」、今回は球界きっての無頼派・松永浩美伝説を振り返りたい。

いつでも本音で生きる男


 松永ほど、異色の経歴から球界トップにのぼりつめた男はいないだろう。

 小学校時代はサッカー部に所属。ところが、中学校にサッカー部がなかったことから野球を始めた。その後、福岡・小倉工でも野球部に所属した松永だったが、1978年、家庭の事情で中退。練習生兼用具係として阪急の球団職員となり、2年後にようやく支配下選手となった。

 選手になってからも挑戦の連続だった松永。右打者からスイッチヒッターへの転向を決意すると、日本人選手初の1試合両打席ホームランを達成。自慢の俊足を生かし、盗塁王と最高出塁率のタイトルも獲得した。

 最底辺から出発し、タイトルホルダーへ。このバックボーンが、「いつでも本音で生きる」というスタイルにつながった。

 オリックス時代の1992年にはこんなエピソードがあったという。

 この年、入団したばかりの田口壮が一塁に出塁した際、ベンチからはエンドランのサイン。打者・福良良一はきっちり、三遊間深くへと転がした。スタートを切っているはずの田口は二塁セーフとなり、福良も内野安打になるはず……だったのだが、田口がサインを見落としてしまい、二塁フォースアウト。福良の記録は単なるショートゴロとなった。

 これに烈火の如く怒ったのが、福良ではなく松永だった。

《おまえ、今のミスがどういう意味を持っているか、わかっとんのか。福良は3割打つバッターやけど、ヒット1本足りなくて3割を切ったらどうなる? それだけで何千万と年俸が違ってくるんやぞ》(日本経済新聞、田口壮のインタビューより)

 チームメイトであっても、自分のことではなくとも、言いたいことは遠慮なく告げる。職人軍団・阪急ブレーブスの血を色濃く受け継いだ最後の世代としての矜持がそうさせたのだろうか。

 結果、阪急色を一掃したかったオリックス球団フロントとの間に確執も生まれ、阪神にトレードに出されたのが1993年。ここで、球史に残る「暴言事件」が起きてしまう。

捏造だった「甲子園は幼稚園の砂場」発言


 阪神では開幕戦で5打数5安打。8月には3試合連続先頭打者ホームランの世界記録を樹立したものの、ケガの影響もあって80試合の出場に留まり、V逸の戦犯扱いを受けてしまう。

 そんな状況において、メディアを賑わせたのが「甲子園は幼稚園の砂場」という松永の暴言。もっとも、阪神ファンの怒りを買ったこの発言、実際には一部マスコミによる捏造だった。

 当時、阪神には盗塁を得意とする選手はおらず、グラウンドキーパーに「硬めにしてくれない? 柔らかすぎて滑るんだよ」とオーダー。その際、グラウンドキーパーが「幼稚園の砂場くらいか?」と質問し、松永は「いや、そんなには……」と答えたという。

 このやり取りが、いつの間にか阪神球団と阪神ファンを揶揄するかのような暴言として捏造されてしまったのだ。普段から言いたいことを直言していた松永だったからこそ生まれた誤解でもあった。

 「裏切り者」……。そんなレッテルを受けたことも影響したのか、松永は1年限りで阪神を退団。日本球界第1号となるFA権を行使して、ダイエーへの移籍の道を選んだ。


俺は自分のやりたいことをやりに行くんだ


 阪神での屈辱の1年。捏造記事によるトラウマ。そんな苦境をものともせず、松永は故郷・福岡の地で躍動した。

 1994年、不動のリードオフマンとしてチームを牽引し、福岡ダイエーホークスとしては初めてとなる首位争いをシーズン終盤まで繰り広げた。

 最終成績は2位とゲーム差なしの4位。Bクラスではあったものの、最下位が定位置のようだったチームにおいて、それは間違いなく大きな成功体験。常勝・西武から移籍してきた秋山とともに、松永がチームリーダーとして果たした役割が大きかった。

 個人としても3年ぶりとなる打率3割を記録(.314)。ベストナインとゴールデングラブ賞も受賞し、オールスターゲームにも選出された。

 故郷で結果を残したい、という思いとともに、松永にはもうひとつ、結果を出さなければならない理由があった。それが、FA第1号選手、としての責任。何より、このFA制度導入で大きな役割を果たしたのが松永だったからだ。

《当時、慶応大の志村とか亜細亜大の小池とかがドラフト1位氏名を拒否したじゃない。『そんなに今のプロ野球って夢がないのか?』と選手会のときに話し合ったの。(中略)FA制度を導入しようということで、俺が実行委員になって、シーズン中も何度も話し合いにいってね。それで俺が第1号としてFAを使ったわけ。地元、九州で自分の選手生命を締めくくりたいという気持ちもあってね》(『プロ野球スーパースター「引退劇の真実」』より)

 球界きっての無頼派が、後進たちのためにつくったFA制度。ある意味では、球界を救った男、といえるのかもしれない。

 その後、松永は1997年限りで戦力外通告。引退試合と引退後の要職の打診を受けたものの、それを断ってメジャー挑戦を決意する。当時37歳。まだイチローも日本球界にいた時代だ。

《無謀だ、と言った人間もいたけど、だからなんなの? あんたには関係ないだろう! 俺は自分のやりたいことをやりに行くんだ、と思ったね。他人の言うことはどうでもいい》(『プロ野球スーパースター「引退劇の真実」』より)

 無頼派は、最後の最後までその生き様を貫き通した。


文=オグマナオト

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