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球界屈指のいぶし銀投手・斎藤隆が引退! 遅咲きの野球人生を振り返る

 8月17日、楽天の最年長選手・斎藤隆が現役引退を表明した。今年で45歳。メジャーリーグでも守護神として活躍を見せ、年を経るごとに進化を重ねてきた斎藤。

 今回、そんな斎藤の現役生活を振り返ってみたい。


もともとは野手。大学時代に投手転向して才能が開花


 1985年、強豪・東北高校に入学した斎藤。2学年上には同じく横浜、メジャーリーグで活躍した佐々木主浩、阪神で中継ぎ・抑えとして活躍した葛西稔がいた。

 この時点で当時の東北高はリリーフ育成が上手いというイメージを持ちそうだが、斎藤は高校時代は実は野手。一塁手として甲子園にも出場しているが、どこにでもいるような選手だった。

 卒業後は強豪・東北福祉大に進学するも、ここでも控え。1学年上に矢野燿大、金本知憲という錚々たる面子で、斎藤は己の才能に限界を感じていた。

 しかし、転機は2年秋に訪れる。練習中に遊びのつもりで投手をしていたところ、当時の指揮官・伊藤義博監督がその才能を見出し、斎藤を投手転向させたのだ。

 ところが斎藤本人はノリ気だったわけではない。野手としてもダメな自分がいきなり投手なんて…と不安になり、「卒業後は実家の工務店を手伝おう」と考えていたというのだ。

 開き直って最後の野球を楽しもう。そう考えて投手転向した斎藤だったが、その才能はみるみる開花。日米大学野球の日本代表にまで選出され、中日と大洋の2球団がドラフト1位で指名。大洋がクジを引き当て、ついこの間まで工務店を継ぐはずだった斎藤は急転、プロ野球選手となった。


チーム変革の過渡期だった幸運


 1992年に1年目から6試合に登板した斎藤。翌1993年にはチーム名が大洋から横浜ベイスターズに代わり、当時の近藤昭仁監督が血の入れ替えを断行。若手重用の路線を打ち出し、斎藤もその政策で先発ローテーションに入る。その年、8勝を挙げた斎藤は先発ローテーションに定着。ここでもチーム状況でチャンスをつかみ、それを生かしきる「運」があった。

 1996年には初の二桁勝利を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得。しかし、松井秀喜(巨人)にカモにされ、7本塁打を許すなど一発病が目立ち、数字よりもパッとしない投手だった。

 飛躍を期す1997年だったが、ここはケガで一軍登板なし。上がり目だった野球人生に陰が差したかと思われた。

 しかし、マシンガン打線が火を噴き、横浜が見事日本一に輝いた翌1998年、斎藤は見事に復活。中継ぎ、先発と配置を変えながら、13勝5敗1セーブ、防御率2.97と大活躍し、なかでもWHIPはリーグ最高の1.07を記録。走者を許さない投球を見せた。

 復帰年にチームが好調というものまた「幸運」だろう。「マシンガン打線」と「大魔神佐々木」が注目され、少々陰に隠れてしまったのは、斎藤らしいが…。

 翌年も14勝3敗の好成績を挙げた斎藤だったが、ここでも注目されたのは大魔神佐々木だった。特にオフに佐々木はマリナーズに移籍。オフの報道も大魔神一色となり、現在のDeNAファンですら、この年の斎藤の好成績は忘れがちなところだ。

 2001年には森祇晶新監督が守護神に転向させ、斎藤の守護神人生がスタート。2001年には27セーブ、翌年は20セーブを挙げたが、ここでも横浜が暗黒期に突入したこともあって、特段の注目は集まらず…。

 2003年からは故障に悩まされ、3年間で11勝と奮わぬ時期になってしまった。

「斎藤は終わった」。そう囁かれていた矢先、斎藤は最後の挑戦としてメジャー移籍を決意する。「たった一度でいいからメジャーで投げたい」。その気持ちは大学時代に投手転向したときと似たものだった。36歳、斎藤の新たな挑戦がはじまった。


ここから復活&成長を遂げた遅咲きの男


 2006年、ドジャースとマイナー契約を結び、新たな門出となった斎藤。正直、ファンの声は「なんで斎藤が?」というものが多く、下馬評は決して高くなかったどころか、忌憚なくいえば低かった。

 しかし、ここでも斎藤は幸運ぶりを見せる。3月の開幕戦はメジャー入りと逃すが、チームのクローザーであるエリック・ガニエが開幕直後に右ヒジを痛めて離脱すると、4月にはメジャー昇格。

 セットアッパーとして頭角を示すと、5月には不振の代役クローザーに代わって、守護神に昇格。この年、72試合に登板し、24セーブ、防御率2.07と日本時代のスランプを一蹴する活躍を見せた斎藤は「オールドルーキー」としてメジャーの第一線に名乗りを上げた。

 翌年も39セーブ。メジャー移籍後の肉体改造が功を奏し、本人も驚きの球速159キロも計測。日本時代は速球派の印象は薄かったが、メジャーで新たな武器を手に入れた。

 メジャー通算84セーブ。30代後半から40代前半の7年で338試合に登板したタフネスは、まさに遅咲き選手の代表といえるだろう。


最後は地元・仙台で


 仙台出身の斎藤が最後の地として選んだのは地元・楽天だった。日本球界復帰直後の2013年にはシーズン終盤に疲れの見える投手陣を支え、日本一に貢献。昨年も44歳4ヵ月で最年長セーブを記録した。

 まだまだやれる。そう感じさせる斎藤だったが、ここが引き際とついに引退を決意した。

 コンディション調整などの知識に厚く、その真摯で謙虚かつ人思いの性格から人望も厚い斎藤。次なるステージは指導者だと思うが、テレビでの解説などもぜひ聞いてみたい。斎藤選手、お疲れ様でした!

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