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大昔のプロ野球選手は大学で勉強していた?

 前回前々回でお伝えした[巨人軍初代背番号18] 前川八郎さんは、2010年3月16日、97歳で逝去されました。始球式での勇姿を目の当たりにしてから約8ヵ月後だったので、訃報に接したときには少なからずショックを受けました。

 ショックを受けたまま、前川さんの訃報が載った新聞をめくっている時のことです。別の紙面のコラムに野球選手の集合写真があり、惹きつけられて記事を読むと、<セネタース、苅田久徳>という文字が目に飛び込んできた。当コーナーのタイトル写真に写る苅田さん(左)のことですが、記事のテーマは苅田さん個人ではなく、セネタースという球団と東京・杉並区の上井草という街との関係性でした。

 記事のなかに、セネタースのメンバーだった方に話を聞いたと書いてある。しかもなんと、浅岡三郎という名のその元選手は、96歳になった今も矍鑠と暮らしている、と書かれていた。
 前川さんの逝去を知った悲しみは消えないまでも、奇しくもその日に、同時代の球界で活躍した方がご健在だと知って、何か勇気づけられたような感覚になったのは確かです。


▲現役時代は投手兼野手として活躍。

 僕は意を決して、記事を執筆した新聞社の編集委員S氏に手紙を出し、浅岡さんに取材したいので連絡先をうかがいたい旨をお願いしました。すると、数日後にS氏から電話をいただけただけでも恐縮したのに、浅岡さんへの橋渡しまでお願いすることになってさらに恐縮。甚大なるS氏のご協力のおかげで、インタビューはスムーズに実現の運びとなりました。

 東京・杉並区のご自宅。取材場所となったリビングルームには、奥様と娘さんも同席される様子。浅岡さんがご高齢だけに、見守っている必要があるのだろうと推察しました。
 ところが、しばらくして部屋に来られた浅岡さんの足取りはいたって軽く、「あぁ、どうも。浅岡です」と挨拶も軽やか。傍らに置いてあった名刺を取ろうとしたときの動きも素早く、背筋はピント伸びていて、声にも張りがある。それだけに、100歳近い高齢の方、という印象はどこにもない。<矍鑠>とは、まさにこういう方のためにある言葉なのではないか、と思わされました。

 大阪出身の浅岡さんは地元の北野中(現北野高)を卒業した後、セミプロ(クラブチーム)の神戸ダイアモンドでプレー。そのなかで1936年、セネタースに誘われて職業野球=プロの世界に入ったわけですが、今の選手のような喜びはなかったそうです。
「わたしはもう、まったく不安でね。危惧を感じてました。ですから、えらいところに飛び込んだな、と思いました」

 セネタースは他チームと比べて穏やかな雰囲気があり、ユニークなカラーがあった――。文献資料にはそう書かれていましたが、浅岡さん自身の言葉からは、その片鱗も感じられません。代わりに、僕自身、まったく予想もしなかった事柄が語られたのです。
「当時、チームができて2年、3年目頃、新しい人が入ってきて。ほとんど中学、今の高校を出た人ばっかりで、不安な状況ですからね、わたしはみんなに勉学を勧めました」

   「勉学」とは文字通り、勉強して学ぶこと。どこで勉学するのかといえば、大学の二部(夜間部)。すなわち、当時のプロ野球にまだナイターはなく、デーゲームだけだったから、夜は時間がある。それで大学に行くことができたというのです。
「わたしも、中学を卒業してしばらくブランクありましたけども、やっぱり、そういうことで大学の二部のほうへ行きました。ですから、昼間は野球やって、夜は学生やったわけですよ」

 浅岡さんは苦笑いしていましたが、この逸話だけでも、黎明期のプロ野球の状況が、今とはかなり違っていたことが伝わってくると思います。なにしろ、プロでありながら学生でもあったわけですから、野球が職業になり切っていなかったと言っても過言ではないのです。ただ、「野球と学生の両立は大変だったのでは?」という僕の質問に対し、浅岡さんはこう答えています。

「なんとか、給料はもらえていましたから。若い選手たちはみんな独身がほとんどで、学校へ行くぐらいのことはなんでもないですからね。何も大変なことはありません。十分、われわれには余裕があったと思います。むしろ、野球と学生と、両方できたというのはよかった、楽しかったですよ」

 野球と学生が両立した生活、それ自体が楽しかったという浅岡さん。決して、職業としての野球を疎かにすることはなく、試合での熱中度は常に高く、いい加減なプレーなどは絶対にできなかったそうです。
「やっぱり、名前がプロですから」
 強い口調でそう言われたことが、今も印象に残っています。


▲96歳にして矍鑠としていた浅岡さん。

 ご参考までに、と思い、前川八郎さんにインタビューした記事を事前に送付していました。それで冒頭から自然と前川さんの話になったのですが、同じく投手兼野手だった浅岡さんにとって、「巨人軍の前川投手」こそ最も見習うべき存在だったといいます。
 当時の巨人には[伝説の名投手] 沢村栄治がいて、浅岡さんも「沢村はもちろんすごかった」と言っていました。が、技巧派でタイプの近かった前川さんのほうが、ずっとお手本になったようなのです。

 ただ、「わたしも沢村と対戦したことはありますよ」と聞けば、どうすごかったのか、俄然、興味が湧く。そこで「ピッチングはどうだったか、ご記憶に残っていますか?」と尋ねてみました。すると浅岡さんは、「うーん」と唸ったあとにこう言われました。

「もう、それよりも、前川さんが出てきたときは、われわれ、ほとんど勝ったことないと思います。素晴らしかったです」

 浅岡さんはプロ5年目には14勝を挙げ、エース級の活躍をしています。しかしながら、7年間で通算63勝を記録したあとに応召して軍隊へ。戦後は完全に野球界から離れ、70代まで林業の会社の経営に携わっていたため、現役時代の記憶はあまり鮮明ではありませんでした。

 それでも、前川さんの投手像をはっきりと憶えていて、沢村のピッチングよりも「素晴らしかった」、という話は貴重だと思います。浅岡さんのおかげで、[伝説の名投手]の実像を垣間見た気がしましたし、選手が学生でもあったプロ野球黎明期の状況を教えていただき、僕自身、野球の歴史の見方が変わりました。(※浅岡三郎さんのインタビューは、現在発売中の文庫に収録されています)

写真提供/野球体育博物館 撮影/持木秀仁(禁無断転載)

<編集部よりお知らせ>
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今週11月30日、金曜日、三省堂書店神保町本店にて、文庫発売記念のトークライブを開催します。1Fの特設会場で20時30分〜22時まで。ゲストは、本書に登場している[一勝二敗の名将]関根潤三さん。詳しくはこちらへ。

  facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

  文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。『野球太郎 No.001』では、板東英二氏にインタビュー。11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行した。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント @yasuyuki_taka

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