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<85歳の関根さんとトークライブを敢行・後編>

 前回まで、関根潤三さんをお招きしたトークライブの模様をお伝えしてきました。最後となる今回の<後編>は、現役引退後の関根さんが、指導者になったときの話から。

 1965年限りで引退した関根さんは、翌年春に渡米。個人でヤンキースのキャンプ地を視察しています。
「前々から僕の考えでね、アメリカの野球をちょっと見てみようかな、というのがあったんですよ。近鉄を退団したら行こうと思ったけど、巨人に移籍しちゃったんで、行くのが遅れてたんです」

 引退後すぐに、大リーグの名門球団のキャンプ視察。それも海外渡航が楽ではなかった50年近く前にあえて、ということから、指導者の道を目指す姿が思い浮かびます。
 しかし当時の関根さん自身にそのつもりはなく、ラジオ局の野球解説者に転身。それからコーチの話が来るまで、4年の歳月が流れました。
 学生時代からずっとバッテリーを組んでいた親友、故・根本陸夫氏。1968年から広島の監督に就任しており、関根さんに声をかけたのです。

「根本が『潤ちゃん、来いや』ってね。あいつも一人じゃ手が回んなかったんだろうな。それと、当時の広島には山本浩二衣笠、ピッチャーは外木場、いい選手がそろってた。だから『来いや』って言ったのはわかる」

 このとき、1970年、広島のコーチに同時就任したのが、元巨人の名遊撃手にして、のちに監督で成功する広岡達朗氏。実は、関根さんが呼び寄せたのだそうです。
「広岡はまず、いい加減なことを教えない。教えたらそのまま、身につくまでダーッと攻めてく。それは僕、知ってましたから、根本に『内野のコーチは?』って言われたときに『広岡がいい』って言ったんですよ」

 根本氏と広岡氏といえば、後年、西武でも、共にチームを強化していく関係になっています。管理部長としてチーム編成を司る根本氏、監督として現場を動かす広岡氏なくして、西武黄金期の基礎はできなかったといえるでしょう。その原点が広島にあり、両者を結びつけたのが関根さんだったのです。

「当時の広島は、いいコーチングスタッフがそろっていたと思います。それでチームは1975年に初優勝するわけだけど、根本はその下地を作ったですよ。あれは下地作るのがうまいからね、どこでも。作ること自体が好き。できあがったものには興味がないというね。ここはできたな、と思ったらスッと次へ行く」



 根本氏は西武で監督を務めたあとに管理部長になり、陰でチームを支えました。その後、ダイエー(現ソフトバンク)でも監督を務めた後にフロント入りし、球団社長へと上り詰めています。惜しくも根本氏が逝去した99年、王貞治監督の下でダイエーは初優勝しました。
 共通しているのは、低迷しているチームの現場にまず入って、強豪に仕立て上げていること。その点、弱かった頃の大洋(現DeNA)、ヤクルトを率いた関根さんの監督人生とも、通じるところがあるようです。

「チームが弱くてもね、大黒柱になりうるプレーヤーが二人いると、監督として夢を見られる。一人じゃ持たない、どうしても。一人だと孤立しちゃうから」
 二人の大黒柱といえば、巨人のONに始まり、広島の山本浩二、衣笠祥雄、西武の秋山幸二、清原和博などなど。

 果たして、大洋監督時代にはそういうプレーヤーがいたのか、聞いてみると、「いたよ。忘れたけど」と言って、会場全体を爆笑させた関根さん。
 しかしヤクルト時代には、広澤克実池山隆寛と、まさに大黒柱になった二人のプレーヤーと出会っています。関根さんはこの両雄を「イケトラ」と呼んでいました(トラは広澤の愛称)。

「イケトラは、使ってりゃね、出てくるプレーヤーだった。使わなきゃ出ないし、使っておけば、新しいこと教える必要ないんだよ。使って、ヘマしたら自分で考えて、あとで自分で矯正して出てくるとか。だから、なんで今日は打てなかったかっていうのを、ふっとアドバイスすると、完全に自分で消化してくる。そういうセンスはあったね、イケトラには」

 根本氏が広島でそうだったように、関根さんが監督を退いたあとの1992年、野村克也監督の下でヤクルトは優勝。やはり「下地を作った監督」と言えるのではないでしょうか。
「いや、だけど、ノムさんはノムさんで苦労したと思うぞ。イケトラだけじゃ、どうしようもないんで。苦労したと思う。
 なんといってもね、選手を育てて、チームを作るには気長にやらにゃ。気短な奴はダメ。俺もあまり気長なほうじゃなかったけど、やっぱり、気を長く持って、選手がヘマしても何しても、うーんと我慢して、認めなきゃ」

 気を長く持って、我慢する――。僕はそう聞いて、まさにヤクルト監督時代の関根さんがベンチ内で軽く腕を組み、穏やかな表情でじっと立っている姿を思い浮かべました。
「選手を育てるには、ピッチャーならピッチャー、バッターならバッターの原則があるんだよ。それは絶対、外せないことで、原則は各人で違う。体型が違うからね。
 その原則を叩きこむか、叩きこまないか。それで苦労してるか、してないか。夜も眠れないで、選手と格闘してるか。それとも、どっかのクラブでおねーちゃんとヨイショヨイショやってるか。選手はたまんないよねぇ、そんなコーチに教えてもらってたんじゃ」

 もちろん、関根さんは「夜も眠れない」指導者だったわけですが、その理念についてもうかがいました。
「監督、コーチはね、若い選手を見たとき、ここをこうしたらこういうふうなプレーヤーになるなって、そこまで見えなかったら教えちゃダメ。3人いたら、3人に同じことを教えてたらダメ。さっきも言ったとおり、体型が違うから。
 だから、指導方針というかね、やってていちばんホッとするのはね、その人に合った指導法。これをポッと見つけたときに、オッケー! になるんだよ。それを見つけるまで、ずーっと選手と一緒に動いてるんだ。
 だから、あんたに合う指導法と、俺に合う指導法と、違うよ、たぶん」

 その後、お酒の飲み方の話から「ミスター」こと長嶋茂雄氏の思い出話へとつながったのですが、関根さんは巨人時代、長嶋氏の自宅をよく訪ねたそうです。ナイターの後、深夜までバットを振る長嶋氏を何度も見たといいます。

「ミスターがすごいのはね、自分が苦労してる姿を見せない。俺、あの人がね、グラウンドで汗水たらして一生懸命にやってるところは、あんまり見たことない。だけど、家に一週間ぐらい毎日行ってるとわかる。努力してたし、うんと苦労してたよ、バッティングで」

 ふと、関根さんも長嶋氏と同じではなかったかと思い、聞いてみました。
「関根さんも、一生懸命な姿を周りに見せないほうだったんじゃないですか?」
「やんねえもん。見せようがない(笑)」

 最後に、今のプロ野球選手たちに向けてメッセージをうかがいました。

「バッターは、自分の家に帰ったら、毎日、バットを振ってください。あの長嶋でもね、毎日、振ってたんだから。おんなじフォームで振ることによって、フォームを固めなさい、っていうこと。よく、打つことによって固めようとするけど、打つことはいろんな打ち方になっちゃうから固まらない。スイングは固まるんだよ」

「ピッチャーは、座禅でも組んどれや(笑)。いや、ほんとですよ。俺、ピッチャーやってるときに、座禅、組んだもん。いいんだか、悪いんだか、知らないけど、落ち着くよ。
 俺ねぇ、今でも家帰ってたまにね、正座してね、目ぇつぶってみる。そうすると、いろんなこと考える。ときどき女が浮かんでくる。今の女と昔の女が浮かんでくる――。これ、内緒ですよ(笑)」


▲85歳のパワーを最大限に発揮。会場全体を何度も爆笑させた

※次回更新は1月7日(月)になります。


<編集部よりお知らせ>
facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。『野球太郎 No.001』では、板東英二氏にインタビュー。11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行した。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント @yasuyuki_taka

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