週刊野球太郎
中学、高校、プロ・・・すべての野球ファンのための情報サイト

高校でもプロでもファン拡大に一役買った青森のイケメン投手・太田幸司【高校野球100年物語】

【この記事の読みどころ】
・沖縄から初出場した首里ナインが甲子園の土を持ち帰ったが……
・左肩を脱臼しながら準優勝に導いた池永正明
・箕島黄金期を築いた尾藤公監督

〈No.051/印象に残った勝負〉
史上初! 伝説となった決勝戦での延長18回引き分け・松山商対三沢


 1969年8月18日13時にプレーボールが宣告された第51回大会決勝戦。古豪・松山商に挑むのはアイドル球児・太田幸司(元近鉄ほか)を擁する三沢だった。松山商の先発、井上明が「柔」とすれば、太田は「剛」。好対照な両投手の投げ合いでスコアボードには「0」が並んだ。

 先に勝利に近づいたのは三沢。延長15回と16回、ともに1死満塁という大チャンスを迎えるものの、相手の堅守とスクイズ失敗などで無得点。そのまま18回までゼロ行進が続き、史上初の決勝戦で延長18回引き分けとなった。

 翌日の再試合では、前日にあれほど打てなかった松山商が1回表に2ラン本塁打で先制。三沢もすぐさま1点を返すが、その後もミスが続き、4−2で松山商が優勝。真紅の優勝旗は白河の関を越えることができなかった。

〈No.052/泣ける話〉
海に捨てられた「甲子園の土」と友情の「甲子園の石」


 1958年夏の大会は「第40回記念大会」として、史上初めて各都道府県から1校ずつ、47の代表校が出場。当時まだアメリカの統治下だった沖縄からは首里が出場を果たしたが、善戦虚しく1回戦で敗退してしまう。ところが、敗戦以上の悔しさがその後に待っていた。他の球児同様に記念に持って帰った「甲子園の土」が、アメリカ統治下の沖縄では「外国の土」という扱いで没収され、検疫官によって那覇港の海に捨てられてしまったのだ。

 このことはメディアでも大きく扱われ、JALの客室乗務員が「土は駄目でも、石なら検疫対象外」と甲子園にあった小石を集めて首里に届けた。首里の甲子園出場記念碑には、今もこの「甲子園の石」が設置されている。

〈No.053/印象に残った選手 part1〉
甲子園に「アイドル球児」を根付かせた二人の“コーちゃん”


 1970年代以降、甲子園熱がさらなる高まりを見せた背景には、女性ファンが増えたから、という理由も大きい。そして、女性ファン拡大に大きく寄与したのが「アイドル球児」たちの存在だ。その「第1号」といえるのが、1968年夏から3季連続で甲子園出場を果たし、1969年夏には史上初の決勝再試合を生んだ三沢のエース・太田幸司の存在が大きい。ロシア人の母の血を受け継いだルックスとマウンドでの熱投によって女性ファンを虜にした太田は「コーちゃん」の相性で人気を呼んだ。

 さらに翌年、甲子園を沸かせたのが箕島のエースで4番だった島本講平(元南海ほか)。チームをセンバツ優勝に導いた実力と端正なマスクで「2代目コーちゃん」と呼ばれ、太田幸司で甲子園に目覚めた女性ファンを根付かせるキッカケとなったのだ。

▲太田幸司/イラスト:横山英史

〈No.054/印象に残った選手 part2〉
「男気のマウンド」と呼ばれた怪物・池永正明


 1960年前後の高校野球を盛り上げた存在として、法政二の柴田勲や浪商の尾崎行雄らとともに、必ずといっていいほど名前が挙がるのが、1963年に2年生エースとして春優勝、夏準優勝を果たした下関商の池永正明(元西鉄)だ。

 山口県の陸上三種競技で県記録をつくってしまうほどの足腰のバネが生み出すストレートとカーブで相手打線を翻弄。県大会では完全試合を達成するほど図抜けた存在だった。中でも有名なエピソードが2年夏、甲子園2回戦で左肩を亜脱臼しながら、その後も投げ続けたことだ。動かない左腕の痛みをこらえ、右腕のみの投球動作で決勝戦にまでチームを導いたことから「男気のマウンド」と称されている。

 池永といえば、プロ入り後、わずか6年で103勝を挙げながら「黒い霧事件」で永久追放処分を受けた(2005年に復権)ことのほうで有名になってしまった。だからこそ、高校時代の勇姿も後世にしっかり伝えていかなければならない。

〈No.055/印象に残った監督〉
甲子園を何度も沸かせた「のびのび野球」と「尾藤スマイル」


 1966年に箕島高校野球部監督に就任。すぐに箕島黄金期を築いた監督こそ、尾藤公だ。1968年春に東尾修(元西武ほか)を擁して甲子園初出場を果たすと、1970年春には島本講平を擁して全国制覇を達成。その後も、1979年に史上3校目の春夏連覇を達成するなど、計4度甲子園を制した名将だ。


 トレードマークは球児たちとともに泣き笑いする「尾藤スマイル」。強さだけでなく、個性を大事にした「のびのび野球」でもファンを味方につけた。2011年に68歳で死去。現在、息子の強氏が同校野球部監督を務めている。

〈No.056/知られざる球場秘話〉
ガソリンをまいてグラウンド整備!? 甲子園球場グラウンド整備物語


 大会を盛り上げる上で欠かせない存在が、いつも最適なグラウンドコンディションを維持する阪神園芸だ。特に雨が降った際、マジックのような整備術であっという間に水たまりを消してしまう姿に熱視線を送るファンも多い。

 この阪神園芸の妙技も、そして水はけのよい甲子園の土とグラウンド状況も、90年を超える甲子園史の積み重ねがあればこそ。だが、過去にはとんでもない整備方法で失敗する例もあった。

 その代表例が「ガソリン乾燥」。ぬかるんだ甲子園にガソリンをまいて火をつけ、蒸発させてしまおう、という作戦だった。1928年の大会で初めて採用され、戦前の大会ではしばしば用いられた方法だが効果のほどは今ひとつ。地中の水分まで吸い上げ、かえってグラウンド状況を悪くした、ともいわれている。

〈No.058/時代を彩った高校〉
史上初の春夏連覇達成! 1962年の作新学院


 長い甲子園の歴史において大会連覇や夏春連覇を成し遂げたチームは過去にもあったが、春夏連覇はなぜか達成できない大きな壁だった。その壁を初めて打ち崩したのが、1962年の作新学院だ。

 だが、偉業達成までの道のりはやはり険しかった。センバツはエース・八木沢荘六(元ロッテ)の好投が光ったが、準々決勝は引き分け再試合の末の辛勝。準決勝も延長16回と死闘続きでもたらされた栄冠だった。

 そして、連覇を目指した夏の大会では、八木沢が赤痢になってしまい戦線離脱(大会途中からベンチ入り)。そんな危機を救ったのが2番手投手の加藤斌(かとう・たけし/元中日)。一戦ごとに調子をあげ、「偉大なる第二投手」として史上初の春夏連覇に貢献した。

〈No.058/世相・人〉
過熱する応援合戦。史上最も変わった応援スタイルとは?


 高まる甲子園人気を受け、アルプススタンドで繰り広げられる応援合戦も年々派手に、特色溢れるものになっていった。お国自慢があればブラスバンドで盛り上げる高校ありと、特色はさまざま。一世を風靡したものではPL学園の人文字応援が有名。初めて甲子園で人文字を披露したのは1962年のセンバツ初出場時、という説が有力だ。

 そんな応援スタイルで史上最も物議を醸したのが、戦後間もない1948年のセンバツに出場した地元の鳴尾だ。阪神パークと交渉の末、なんと本物の像を借りてレフト通路から入場させた。さすがに試合が始まる前に退場処分となったが、これに怒ったのが当時の高野連副会長の佐伯達夫。「像も借りる方も貸す方も非常識。もし暴れたらどうするんだ!」と烈火の如く怒りをあらわにした。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

記事タグ
この記事が気に入ったら
お願いします
本誌情報
雑誌最新刊 野球太郎No.31 2019夏の高校野球&ドラフト大特集号 好評発売中
おすすめ特集
2019夏の甲子園特集
2019ドラフト特集
野球太郎ストーリーズ
野球の楽しみ方が変わる!雑誌「野球太郎」の情報サイト
週刊野球太郎会員の方はコチラ
ドコモ・ソフトバンク
ご利用の方
KDDI・auスマートパス
ご利用の方