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元祖[二刀流ルーキー]を生んだ監督、三原脩の魔術とは?

 雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!


 先月の初め、久方ぶりに<伝説のプロ野球選手に会いに行く>の取材をしてきました。

 今回お会いしたのは、1960年代末から70年代にかけて、強打者として活躍した永淵洋三さん(元近鉄ほか)。インタビュー記事は『野球太郎 No.006 2013ドラフト直前大特集号』に掲載されていますが、例によってお話は長くなり、当初1時間の予定が2時間弱。やむなく割愛した内容を、こちらでお伝えしたいと思います。

 永淵さんは1968年、ドラフト2位で近鉄に入団。今年の日本ハムの大谷翔平と同様、プロ1年目から投手兼外野手として出場した[二刀流ルーキー]でした。

 もっとも、社会人野球で7年間プレーしてからのプロ入りだったので26歳。左投左打の選手で、投手としての登板は左のワンポイント的な役割が多く、先発は一度だけ。まして開幕から2カ月で[二刀流]は終わり、以降の永淵さんは野手に専念しているので、大谷の起用法とはかなり違っています。

 そもそも、永淵さんを投手兼野手として起用した三原脩監督。当時の近鉄には左投手も左打者も少なく、いわば“苦肉の策”として、ルーキーの永淵を投手、代打、外野手で生かそうと考えたのでした。ですから、その起用法に関するマスコミの伝え方も、概ね[二刀流]ではなくて[一人三役]となっていました。

 マスコミといえば、三原監督には、別の意図もあったようです。[一人三役]が話題になり、人気になることで、チームに活気を与えられないかと――。

 なにしろ近鉄は1950年の球団創立以来、Aクラス入りがなく、「万年最下位」と言われるほど低迷していました。そこで巨人、西鉄(現西武)、大洋(現DeNA)と3球団で優勝した実績を買われ、68年から就任した三原監督。[魔術師]とも呼ばれた手腕にチーム強化が託されたわけですが、その一端を、永淵さんが話してくれました。

「キャンプの初日にね、三原さんが選手集めてミーティングがあったんです。そのときの第一声が、『おまえら、俺が今からしゃべんのに、誰も筆記道具持ってきてない。すぐ買ってこい!』でした。『人間っていうのはすぐ忘れる。だから、人の話を聞いたら、必ずメモしなさい。メモしてないから弱いんだ! 野球はグラウンドだけじゃないぞ!』と言われたのを今でもはっきり憶えてます」

 温和だった永淵さんの顔がにわかに険しくなって、目の前にいる自分自身、実際に監督に叱られているような気がしました。

「三原さんが言うには、『俺がたとえばここで10しゃべったら、1時間もすれば7つや8つぐらいは忘れる。1週間もすればほとんど忘れてしまう。人間っていのはそういうものなんだ。だから必ずメモしなさい』と。それは僕、やっぱり参考になりましたよ。試合中でも、ちょっと何かあって、自分が気がついたらよく書いてました。三原さんもゲーム中にね、何かあったら、マッチ箱なんかにパッと書いてましたよ」

 テレビでプロ野球を見ていてベンチが映り、監督、コーチがメモを書いている姿は日常的になりました。じゃあ、1960年代のベンチではどうだったのか。

 以前、当コーナーで、その時代、元阪急の高井保弘さん、長池徳二さんが試合中に投手のクセをメモしていた、という話を紹介しました。他球団でもあったのでしょう。  ただ、「マッチ箱にパッ」というスピード感は[魔術師]と呼ばれた三原監督独自のものに思えますし、監督の指導で選手がメモを取るようになったケースは滅多になかったのではないでしょうか。永淵さんはさらに三原監督の話を続けてくれました。

「東京の田園調布に三原さんの家があったんですけどね、あるとき、マネージャーが監督の家に行く用事があったんです。それで行ってみたら、膨大な野球の資料があったそうですよ。いろいろと野球を研究したものだったり、試合のときにこういうことがあったとわかるものとか、ありとあらゆるものがあって、それがものすごい量だったと。だから、[魔術師]、[三原魔術]と言われたけれども、そういう裏付けがあるんですよ」

 当時の新聞、雑誌の記事を見ると、三原監督も近鉄の選手たちも一様に、「魔術なんてものはありません」と発言しています。

<技術が売りもののこの世界で、催眠術なんかかけて、効き目があるわけがないじゃないですか。力がなかったら、この世界は勝てません。この好成績は実力ですよ>

 68年のシーズン開幕早々、近鉄は首位を走っていました。そこでマスコミが「三原魔術」と書き立てたことに対して、三原監督がそう反論したのです。ルーキーの永淵さんはもとより、前年までまったく無名だった選手の活躍に関しても、こう答えています。

<その選手の持っているいい面を引き出してやる。これが、私の仕事です。何も特別なことはやってませんよ。ただ、昨年までうずもれている選手が急に表面に出てきただけに、余計みんながそんな目で見るんじゃないですか>

 もっともな回答と言えるでしょう。しかしながら、永淵さんの場合、グラウンド外において、端から見れば「魔術」としか言えないような、奇妙な体験をしているのです。

「日生球場で試合前、マネージャーが、『永淵、ちょっと、監督が呼んでるぞ』って言うからね、何したかな?と思って監督室に行ったんですよ。そしたら『座んなさい』って言われて、いきなり、『えーと、永淵君な、家を買うんだったら、庭の広いとこを買いなさい。家は古くてもいいから、庭の大きいとこを買いなさい』。これが第一声ですよ。普通じゃないでしょ? で、その次に言われたのがね、『もし車を買うんだったら、新車は買うなよ。中古を買いなさい。それはすぐぶつけるから』。そんなことを僕に言ってね、『はい、もういいよ』って」

 中古車はともかく、三原監督に言われたとおりの物件に出会った永淵さんは即購入。その物件が後々、現役引退後、地元の佐賀に戻って焼き鳥店『あぶさん』を経営することにつながったのだといいます。単に野球の勝負だけでなく、一選手の将来まで考える指導者だったとは意外に感じました。


▲今年71歳の永淵さん。近鉄入団2年目の1969年、パ・リーグ首位打者を獲得。その酒豪ぶりから、野球漫画『あぶさん』のモデルとなった。

「確かに、将来を考えてくれたんだと思います。他の選手以上に、僕のことを可愛がってくれた面もあったかもわかりません。冷たくされたように見えた選手もいましたからね。でも、普通、言いませんよ、試合前に、監督が。どんなに選手の将来を考えていたってね」

 永淵さんから見て、「怖くなるほどに」頭脳明晰で先見の明があり、惹きつけられる人間的な魅力があったという三原監督。その指導の下に近鉄は翌69年、球団初のAクラスとなる2位に浮上し、永淵さんはパ・リーグ首位打者を獲得しています。次回、バッティングに関して、誌面に載せ切れなかった話をお伝えしたいと思います。



<編集部よりお知らせ>
 facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。昨年11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行。『野球太郎 No.006』に掲載の<伝説のプロ野球選手に会いに行く>では、元祖[二刀流ルーキー]永淵洋三さんにインタビューしている。
ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント@yasuyuki_taka

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