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追悼 土橋正幸さん

 雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!


 土橋正幸さんが亡くなりました。

 昨年4月、<伝説のプロ野球選手に会いに行く>の取材でお会いしたので、今も残念な気持ちが消えていません。

 1935年に東京・浅草は雷門に生まれ、生粋の江戸っ子だった土橋さん。昭和30年代に東映(現日本ハム)のエースとして一時代を築き、通算162勝を挙げ、現役引退後はヤクルト、日本ハムで監督を務めています。

 それだけの実績ある方が、学生野球も硬式野球も経験しないで家業の鮮魚店で仕事をしつつ、草野球からプロ入り。その球歴は、取材の際にまずいちばんに興味ひかれるところでした。

「自分で言うのはおかしいんだけどさ、わたしのようなプロセスで野球選手になってね、そこそこの成績を挙げたのは、ほかにいないでしょう?」

 土橋さんにそう問われて、「軟式からプロへ、というプロセスですね?」と答えると、こういう言葉が返ってきました。

「軟式もそうなんだけどね、わたしの場合、魚屋からっていうプロセスもあるんですよ。フィクションみたいな話でね」

 まさに「フィクション」だと感じられる逸話をたくさん聞きました。

 新聞社が主催する東京23区の大会に、浅草のストリップ劇場の野球チームの「補強選手」として出場。

 投打に活躍して優勝に導いた後、草野球チームの知人に勧められて東映のプロテストを受験。

 土橋さん本人はもう「魚屋をやる」と決心した後で、乗り気じゃないままにチームメイトとともに受験したら、土橋さんだけが合格。

 親御さんには当初、入団を反対されたものの、「俺は家の状況で大学も行かなかったし、3年だけやらせてくれよ」と頼み込んで東映へ。

 1年目の1955年は2軍暮らしで、2年目は1軍で4試合登板。それでもまさに「3年」目にプロ初勝利して5勝を挙げると、4年目の58年に21勝と一気にブレイク。

 まさかの球歴ながら、なにかトントン拍子に進んだような印象。そのあたりも「フィクション」に思えたのですが、体力十分でタフだった土橋さんも、プロ入り当初の現実はかなり厳しいものがあったそうです。

「当時は2軍専属のコーチもいない。仕方ねぇから外野の塀に丸書いてさ、ボール1個でそこに投げてるって、そんなんですよ、あの頃のプロは。でも、わたしはなんにも知らないから、こんなもんだと思ってやってた。で、暴投を投げてスタンドに入れちゃうと、自分で登って捕りに行くんですよ」

 キャッチャーが受けてくれるのではなく、壁当て……。担当の指導者がいるわけでもない練習環境……。

「なんとかコツをつかもうと思って、フリーバッティングでたいてい1時間は投げた。それから2軍の試合に投げて、そのあと、コーチの指示で2時間ぐらいピッチングしたときもありました。アウトコース、インコースにね、10本続けてストライクが入りゃあ終わりなんだけど、5つぐらいまでいくと暴投でやり直し。7つぐらいまでいって、またやり直し。のちにはもう目ぇつぶったってストライクの10本ぐらい投げられたけどさ、当時は終わりませんよ。だから2時間。厳しかったですね」


▲投手として研究と計算を大事にしていた土橋さん。「魚屋のあんちゃんだったけど、野球だけは勉強したから」という言葉が印象に残る。

 それでも心身がつぶれなかったのは、野球と同じように子どもの頃から好きだった相撲のおかげ。魚河岸にあった伝手を通じて、横綱の栃錦がいる春日野部屋を見学したことがきっかけになったそうです。

「あこがれの横綱に会う会わない以前にさ、稽古を見たら15、6の子が裸で地べたを転がり回ってる……。わたしはそれを見て、俺たちの野球の練習なんてこれに比べりゃ屁のようなもんだ、と思ってね。それまで嫌だった練習を自分で進んでやるようになった。そしたら、コツがわかってきたんです。ボールを離すコツがね。力で投げるんじゃないんだってことが」

 土橋さんは右腕をゆっくりと動かしながら、話を続けました。

「ちゃんと腕が振れて、指先にボールがかかる。それまでは肩に力が入っちゃうからダメだった。高橋さんだって、もの書いててさ、力入ったらスラスラいかないでしょ?」

 急に自分の名前を呼ばれて、驚きました。初対面の取材ではあまりないことで、特に野球人の場合は、過去に一人…、二人いたかどうか。

 以前、知り合いのライター氏が「取材で自分の名前を呼ばれることってあんまりないですけど、呼んでくれる人の場合、まず対話はスムーズですね」と言っていましたが、いかにも、土橋さんとは最初から打ち解けた感じで話せていました。

 それにしても、過去のあらゆる取材において、野球の技術と原稿の執筆を結びつけて語られたことなど一度もありません。確かに書くことも技術のうちとは思いますが…。僕はとっさに出てきた言葉を吐き出しました。

「書くときに力が入るとしたら、考え過ぎて筆が止まったときだと思います。スラスラいくときは何も考えていないかもしれません」

 土橋さんはうなずいて言いました。

「ねぇ。投げるんでも余分な力が入らなければ、勝手に球がいっちゃうような感覚になる。そしたら1時間投げてもなんでもない。それでまぁ、親と3年の期限で約束したんだけど、なんとか3年目に勝てたんです」

 その後、21勝を挙げた1958年の話になったとき、僕は持参した同年の『ベースボールマガジン』7月号の記事と表紙コピーを差し出しました。表紙にはその年にデビューした長嶋茂雄さんと土橋さんが並んでいます。見るなり土橋さんは「それは知りませんねぇ! これはないね」と驚き、「わたしの孫に見してやりたいよ。本当に知りませんでした」と笑っていました。

 ご自宅から近い赤坂のカフェテリアで2時間弱。現役時代の野球人生を語ってもらいました。沢村賞の選考委員長でもあった土橋さんだけに、今の現役のピッチャーたちに向けた助言も数多くうかがいました。

 翌日、<土橋さんからの伝言>と題されたメールが編集部から届きました。取材のあとに土橋さんから電話があって、<長嶋さんと一緒に写っているベースボールマガジンの表紙のコピーを自宅に送ってもらえないでしょうか。孫に見せてやりたいんです>と言われたのだそうです。

 取材後にこうした依頼を受けるのはまったく初めてのことで、僕はすぐさま速達で郵送。すると翌日、土橋さんから電話がかかってきて、「先ほどいただきました。これで孫に自慢できます。ありがとうございました」と言われて恐縮するばかりでした。


▲あらためてお送りした『ベースボールマガジン』1958年7月号。思い出の品々と一緒に、ずっとご自宅に飾られていたという。

 単に、会いに行くだけで終わりではなかった土橋さん。一ライターとしても貴重な経験をさせていただいただけに、本当に残念でなりません。心から、ご冥福をお祈りいたします。


<編集部よりお知らせ>
 facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。昨年11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行。『野球太郎No.005 2013夏の高校野球大特集号』では『伝説のプロ野球選手に会いに行く』の番外編として、「伝説の高校球児」バンビこと坂本佳一氏(東邦高)のインタビューを掲載している。
ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント@yasuyuki_taka

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