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違うもんは違う! 大家族を支える気概の男・広陵高校 中井哲之監督


広陵高校 中井哲之監督


1980年夏・広陵


 2014年の6月半ば。梅雨はどこにいったのか、照りつける初夏の日差しのなか、編集を手伝っている『野球太郎No.010 高校野球監督名鑑号』の取材で広陵・中井哲之監督の元を訪れた。私が住む東京から広島までは交通費がかなりかかるため、ライターの服部健太郎さんひとりで取材を行なうはずだったのだが、私は自腹で同行するつもりだった。結局は、野球太郎編集長が「交通費は出しますから楽しんできてください」と言ってくれて事なきを得たが、この号から『野球太郎』の編集を手伝うことになった私へのご祝儀だったのだろうか……。

 私が初めて甲子園球場で観た高校野球は1980年8月17日に行なわれた3回戦、広陵と滝川の試合だった。その夏の熊本県大会では父の母校・八代が秋山幸二(元西武ほか)を擁して初めて決勝戦まで勝ち進んだ。結果は伊東勤(元西武)のいた熊本工に惜敗。八代は甲子園出場を逃したが、8月になっても盛り上がりの冷めない父は熊本工が天理と戦う3回戦前日、突如、家族に言った。「明日、甲子園に行くぞ」。

 熊本工が天理とぶつかるひとつ前の試合を広陵は戦っていた。当時住んでいた岡山から新幹線でやってきた私たち家族は、広陵のゲーム序盤に甲子園に到着。こうして私は高校野球観戦を迎えたわけだ。この年の広陵には二段モーションのアンダースロー・渡辺一博、後に広島に入団した原伸次のバッテリーが評判で優勝候補の一角にあげられていた。そして、中井監督も俊足の内野手としてこのチームの中心にいた。広陵はキビキビとしたゲーム運びで滝川を下した。「初めての情」からか、この年を境に私は広陵のファンとなった。

広陵高校職員室へのオファー


『野球太郎』の取材のオファーをするために、広陵の職員室に何度か電話をかけるも、なかなか中井監督に繋がらない。電話口に出た先生からは「今、授業中です」「お昼なので寮でご飯を食べてるのかなあ……」「あれ、今いたんですけどねえ」などなど。高校を卒業して30年弱。職員室の空気から学校生活のリズムを懐かしく思い起こすも、早く中井監督と話をしなければ……。ようやく電話が繋がった。中井監督に1980年夏の広陵戦の思い出話や、高校野球が何で好きなのかという思いをぶつける。「うん。うん」。穏やかにうなずく中井監督。取材は請けてもらえるのかな? ちょっと心配になったが、OKということで話をずっと聞いていてくれたことが10分ほど経った頃に理解できた。

 中井監督は1990年に27歳で名門・広陵の復活を託されて監督に就任、早くも翌1991年春に優勝。2003年春にも西村健太朗(巨人)、白濱裕太(広島)、上本博紀(阪神)らが名を連ねるチームで優勝、2007年夏には野村祐輔(広島)と小林誠司(巨人)のバッテリーを擁して準優勝。これまでに二岡智宏(元巨人ほか)、新井良太(阪神)、俊介(阪神)、吉川光夫(日本ハム)、有原航平(日本ハム)など、たくさんの教え子をプロ野球の世界に送り出してきた。

 私は広陵の野球が好きだ。奇をてらうことなくオーソドックスに、実直に、ピリリと引き締まった勝負をみせてくれる。広陵の試合を見ていると、知らず知らずのうちに握りこぶしに力が入っていることが多い。勝っても負けても心が熱くなる戦いぶりなのだ。中井監督はそんな広陵を若き頃から率いてきた。


俺が言わねばならぬ


 中井監督は気概の人である。実績を残し、多くのプロ野球選手を育てたが、その口から技術論や戦術論が語られることはまず、ない。語られるのは気持ちのあり様。中井監督は、広陵野球部は大きな家族だと言う。自分が父親で、中井監督の妻が母親、選手は息子。だから本気で怒り、褒め、笑い、泣く。

 取材中にライターの服部さんが、最も影響された人物を尋ねると中井監督は父親を挙げた。曲がったことが大嫌いで、どんな立場の人にでも間違っていると思ったら、言いたいことを言う昭和の頑固親父だったらしい。

「野球でミスをしても怒ることはないです。でも、男として間違ったことをしたら許しません」

 人として正しくあれ。当たり前のことを当たり前にしづらい時代に、中井監督は筋を通してやってきた監督だ。かっこつけることなく、不器用に裸の心をむき出しにして、息子である選手たちに接してきたのだ。

 2007年夏。中井監督は怒った。決勝戦の相手は「がばい旋風」の佐賀北。平凡な公立校の奇跡的な躍進にスタンドは佐賀北の声援一色。日本中が佐賀北を応援していた。8回裏。甲子園が異様な喧噪に包まれるなか、広陵のエース・野村が投じるストライクと思われる球に、なかなか審判の腕が上がらない。ランナーが溜まっていく。地響きのような佐賀北への声援のなか、失われる野村の顔色。ミットで地面を叩くキャッチャー・小林。投げるところがなくなった野村が真ん中に投じた球は、広陵にとって悲劇の逆転満塁ホームランとなった……。広陵は4対5で破れ、目前にしていた優勝は手からこぼれ落ちた。

「あれはないだろうというのが何球もあった。もう真ん中しか投げられない。少しひどすぎるんじゃないか。言っちゃいけないことはわかってる。でも今後の高校野球を考えたら……」

 試合後に中井監督ははっきりと言った。審判の判定に文句をつけるなと普段から選手に厳しく言ってきた自分だからこそ、ここで俺が言わねばならぬ。高野連からの処分は上等。「子どもたちは命をかけてやっている。これで辞めろと言われたら監督を辞める」とまで言いきった。家族のことだから、相手が誰であろうとも、本気で怒るのだ。言わねばならぬことを言うのだ。違うものは違うと。中井哲之は気概の男である。私は2007年の夏から酔っぱらうと、高校野球を知らない友人や妻にも、中井監督の話をするようになった。(迷惑かけてすまぬ……)。

死ぬなら甲子園で死になさい


 私は中井監督に会いたかった。それで『野球太郎』の取材交通費は自腹でいいと思ったわけだ。中井監督は優しい人だった。当たり前に相手と接する人だった。夏の広島大会前にもかかわらず4時間以上話に応えてくれた。いや、こちらを気遣っていろいろと話をふってくれた。

「いろんな監督に取材してきたと思いますが、どうですか?」
「僕は音楽関係の取材がメインで、高校野球の仕事は初めてなんです」

 中井監督はえっ、という顔をして、笑った(それはそうだろう……)。そして、広陵ボクシング部出身のアーティストとの交流を聞かせてくれ、練習中の1年生にそのアーティストの歌を歌わせた。

 取材後のグラウンド。中井監督がポツリと言った。

「この間、ある若い監督さんがやってきたんですよ。練習を見させてくださいって。黙ってるから何だろうなって思ったら、どうもいろんな事情で異動になったらしくて……」

 数年前に、甲子園出場を果たした他県の公立校だ。その若き監督は、育てあげたチームを離れる前に「自分の原点」だという広陵の練習を見ておきたかったらしい。そして「僕はまた甲子園に出ます」と絞りだし、号泣したという……。

 最後に2007年夏に関する好きなエピソードを。3回戦の途中、体調不良で中井監督はベンチを退いた。次戦のベンチ入りが危ぶまれる状態だった。無理か……。すると、これまで文句ひとつ言わず支えてくれ、中井監督が「僕のよき理解者であり、選手たちのおふくろ」と呼ぶ奥さんに喝を入れられたという。

「倒れるなら甲子園で倒れなさい。死ぬなら甲子園で死になさい」

 翌日の準々決勝。中井監督の姿はベンチにあった。


■著者プロフィール
山本貴政(やまもと・たかまさ)
1972年3月2日生まれ。ヤマモトカウンシル代表。音楽、出版、サブカルチャー、野球関連の執筆・編集を手掛けている。また音楽レーベル「Coa Records」のA&Rとしても60タイトルほど制作。最近編集した書籍は『デザインの手本』(グラフィック社)、『洋楽日本盤のレコードデザイン』(グラフィック社)、『高校野球100年を読む』(ポプラ社)、『爆笑! 感動! スポーツの伝説超百科』(ポプラ社)など。編集・執筆した書籍・フリーペーパーは『Music Jacket Stories』(印刷学会出版部)、『Shibuya CLUB QUATTRO 25th Anniversary』(パルコ)など。

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