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入団時の評価を覆し、這い上がった「“ドラフト外”出身のスター」選手名鑑/第24回

「Weeklyなんでも選手名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第24回のテーマは「“ドラフト外”出身のスター」選手名鑑です。

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 大谷翔平(日本ハム)、藤浪晋太郎(阪神)、菅野智之(巨人)、小川泰弘(ヤクルト)、則本昂大(楽天)などなど、今シーズンは例年以上にルーキーが活躍を見せています。名前を挙げた選手は皆ドラフト1位もしくは2位で指名を受けてプロ入りし、球団からの期待に順当に応えていますが、一方で入団時の低い評価を跳ね返し活躍する選手がいるのもプロ野球の世界です。

 今年1月には、テスト入団した選手としては大野豊氏(元広島)が初の殿堂入りとなりましたが、大野氏のように、大物ルーキーたちの活躍を尻目に、日の当たらない道を、必死に歩き続けている選手もいることでしょう。そんな選手たちへのエールを送る意味も込めて、“ドラフト外”で入団しスターへと駆け上がっていった面々で名鑑をつくります。

大野豊(広島)

 テスト入団で知られる大野だが、その素質は高校時代には注目を浴びており。後に入団する広島やロッテなどが声をかけており、ドラフト会議での指名を検討していた。しかし、プロでやっていけるか自信を持てなかった大野は、自らを一人で育ててくれた母親への気づかいもあり、軟式ではあったが故郷・出雲市で唯一野球部を持っていた出雲信用組合に就職した。窓口業務などをこなしながら野球を続けた。

 大野の実力は軟式野球界では図抜けていた。出雲信組軟式野球部は全国大会や国体に出場。そうした経験から「プロでやってみたい」という思いが湧き始めていた大野は、就職から3年目の1976年、出雲市に少年野球の指導に訪れた広島OBと接触し、翌77年春に単独でテストを受験する機会を得る。これに合格しプロ入りを決めた。

 年俸は月割り13万円、契約金替わりの支度金として90万円という当時としても最低条件に近いスタートだった。

 1年目で登板機会を得たが、滅多打ちにあい1アウトしかとれず5失点で降板。プロの厳しさを味わった。

 しかし翌年、南海から同じ左腕で同じ名前、そして母子家庭で育ったという共通点のある江夏豊が広島にやってくる。7歳上の実力者の教えを受け、大野は成長。中継ぎとして役割を得た。

 抑えを務めていた江夏が移籍した1981年からは抑えに回る。80年代後半からは先発として活躍し、その後も球団の事情に合わせた役割を務めながら、22年、43歳まで安定した活躍を見せた。93年にはメジャーリーグ・エンゼルスから正式なオファーが広島に届いたことなどでも知られる。

 なお、大野がプロ入り前に所属した出雲信組は2006年に島根中央信金と合併し、その名称はなくなっている。島根中央信金に野球部は存在する。

[大野豊・チャート解説]


軟式野球部でのプレーという回り道はしたが、素質はプロからも認められていた。雑草度は4。入団1年目から登板機会を得て、さらに2年目には江夏との出会いもあって41試合に登板(防御率3.75)。活躍までは比較的早かった。下積み期間は3。広島史上最高の左腕の1人といっていい存在。実績度は5。

チャートは“ドラフト外”選手としての期待の薄さを示す「雑草度」、入団から活躍までにかかった時間「下積み期間」、プロでどれだけ活躍したかの「実績度」を5段階評価(以下同)。

石井忠徳(琢朗/大洋)

 足利工では2年生で投手として甲子園に出場するも、3年では予選敗退。自信を失っていた石井は、夢だったプロ入りはあきらめ、東洋大入学を決めていた。

 ドラフトでの指名は当然なかったが、その後、大洋の江尻亮スカウトの推薦でドラフト外ながら石井にオファーが届く。石井はこれに応え入団を決めた。同期の“指名組”には同じ高卒の谷繁元信などがいた。

 石井は投手として入団したが、1年目から頭角を現し、オープン戦では清原和博(当時西武)から三振を奪う。シーズンに入っても先発で初勝利を挙げるなど、まずまずのルーキーイヤーを過ごした。球団もその潜在能力を高く評価し、ドラフト外出身ながら有望株として期待を集めた。

 しかし、2、3年目は勝利を挙げられず、石井は伸び悩んだ。3年目のシーズンを終えると、当時の須藤豊監督に野手転向を訴えた。強く反対した須藤監督も最終的にこれを認め、石井の野手としてのプロ野球人生が始まった。

 そして石井の野手としての才能はすぐに開花。転向2年目の1993年にはレギュラーをつかみ、盗塁王とゴールデングラブ賞(三塁手)を受賞。1995年には打率3割を達成した。横浜が38年ぶりの日本一に輝いた98年にはマシンガン打線のリードオフマンとして、リーグ最多の174安打を記録し、横浜の顔の一人となった。

 打撃センスはあったが、高校時代は投手以外だと時々外野を守る程度。内野守備はほぼゼロでプロに入って取り組んだ。にもかかわらず遊撃という難しいポジションをこなせるまでに技術を高めたことで、打撃の価値はよりいっそう大きなものになったのは間違いない。ロバート・ローズと組んだ攻撃的な二遊間は、プロ野球の歴史を見ても屈指のレベルで、横浜の大きなストロングポイントになっていた。

[石井琢朗・チャート解説]

東洋大進学を決めており、身長も174センチと大きくなかったため、ドラフト外での指名になったが評価は低くなかった。雑草度は3。1年目のキャンプから1軍に帯同するなどチャンスをつかむまで長い時間はかかっていない。ただ、野手転向のタイムロスも考えるならば下積み期間は4。2432安打はプロ野球歴代11位の大記録。実績は5。


亀山努(阪神)

 亀山は鹿児島の鹿屋中央高で4番・捕手を1年生から務め、双子の弟・忍とバッテリーを組み、2年秋には鹿児島大会を制し、甲子園にあと一歩にまで迫ったこともあった。打力には定評があり、忍を視察に来たスカウトの目にとまって、ドラフト外ながら阪神から声がかかった。弟もプロ入りを志望し阪神の入団テストを受けたが合格しなかった。

 なお、亀山は同高の調理科(現・人間科学科)に通っていたため、調理師免状を持っていた。卒業後は人気チェーン「餃子の王将」に就職する話もあったという。

 亀山は入団直後は内野手として起用されたが、真弓明信の加齢、田尾安志の引退などで手薄になった外野にコンバート。ウエスタンリーグで活躍すると徐々に評価を高め、1992年には開幕から1軍に定着する。

この年台頭した新庄剛志らとともにチームを引っ張り、特に亀新コンビは起爆剤となり、低迷を続けてきた阪神は優勝争いに参加。亀山はその躍進の象徴となった。多くは2番・右翼に入ったが、勝負強い打撃を期待され3番に入っていた時期もあった。

 結局この年、阪神は優勝を逃したが亀山は通年で出場を続け、131試合で140安打、打率.287と結果を残した。しかし翌93年はケガ、94年は105試合に出場したが95年に再び大ケガに見舞われ、97年オフで戦力外通告を受ける。現役続行を望み、近鉄入りを目指したが実現しなかった。無名選手から人気球団のスターへと一気に駆けのぼった亀山のジェットコースターのような現役生活は幕を降ろした。

[亀山努・チャート解説]

県内では地力を見せるも甲子園出場はない無名校出身。スカウトも“ついで”の視察だった。雑草度は4。2年目にはウエスタンリーグで首位打者を獲得するなど活躍したが、実績あるベテランに阻まれた部分も。下積み期間は4。記録にしてみれば凡庸だが、90年代阪神についての数少ないポジティブな記憶をファンの脳裏に刻んだ。実績度は4。


その他「“ドラフト外”出身のスター」選手たち

新浦寿夫(巨人)
 1969年入団。1年生投手として甲子園で準優勝した新浦が韓国籍だったことから、外国籍選手はドラフト会議にかけずに獲得交渉できるというルールを利用し、日米球団が争奪戦を展開。結局巨人がドラフト外で獲得した。新浦は2年で高校中退を強いられもした。

西本聖(巨人)
 1975年入団。甲子園を沸かせたスター・定岡正二フィーバーの陰でドラフト外入団。少ないチャンスを生かし信頼を勝ち取って通算166勝を記録。巨人では数少ない“雑草”からはい上がった選手の一人。

松永浩美(阪急)
 高校を中退し、デパートに勤務しながら軟式野球部でプレーしていたところに、阪急のスカウトが声をかけた。球団職員として雇い入れ1978年のドラフト終了後にドラフト外で契約した。

鹿取義隆(巨人)
 江川事件に伴い、78年のドラフトをボイコットした巨人が、指名を受けなかった鹿取をドラフト外で電撃的にオファー。社会人・日本鋼管入りが決まっていたが、それを断って入団。

松沼博久・雅之(西武)
 兄の博久は社会人・東京ガス、4歳下の弟・雅之は東洋大学でともにエースを務めていたが、ともにプロ志向がなく、弟が大学4年となった78年のドラフト会議ではどの球団も獲得をあきらめ指名しなかった。この両者にドラフトをボイコットしていた巨人と西武だけが粘り強く交渉を続け、結局兄弟2人との契約と、当時としては破格の1億5000万円という契約金を提示した西武が兄弟を落とした。

秋山幸二(西武)
 1980年のドラフトで多くの球団が獲得を狙っていたが、大学進学の噂が流れあきらめかけていたところを「打者としての起用の約束」と、松沼兄弟に続くやはり破格の契約金を提示した西武が秋山の心をつかみ、1本釣り状態でドラフト外契約した。

栗山英樹(ヤクルト)
 高校は強豪・創価高でプレーしたが甲子園出場は叶わず。大学では東京学芸大学で教員免許の取得を目指しながら野球部でもプレー。プロ入りは想定していなかったが、4年になったときにプロ入りへの情熱が沸き、ヤクルトの入団テストを受け合格。1984年にドラフト外で入団した。

進藤達哉(大洋)
 高岡商で甲子園に出場、立浪和義らを擁するPL学園に敗れた。しかし甲子園での守備などを評価した大洋がドラフト外で契約をもちかけ、1988年に入団した。これは石井忠徳(琢朗)入団の前年。大洋はドラフト外で優れた選手の獲得に連続して成功していた。


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(1) 競争相手のいない「掘り出し物」との契約
(2) 入団テスト合格者との契約
(3) 高校や大学中退など、立場的に宙に浮いた選手との契約
(4) ドラフトでの他球団の指名を防ぐ情報戦を仕掛けた上での契約

 ドラフト外での契約は、この4つのいずれかに当てはまるものが多いようです。ドラフト外で入団した選手を年度順に追っていくと、当初はドラフト制度下での新人選手との契約を柔軟に行っていくためのものだったのが、抜け道的に使われるようになり、1991年をもって廃止されるに至る流れがわかります。

 今現在ではドラフト外に近いものとして存在する育成ドラフト、育成選手。いまや日本代表にも欠かせない中継ぎとなった山口鉄也(巨人)はもちろん、今シーズンは千賀滉大(ソフトバンク)、西野勇士(ロッテ)の二人が育成選手から這い上がり、大きな活躍を見せています。

 たしかに、冒頭でも触れた大物新人たちが活躍していますが、それ以上と言ってもいいほど彼らの活躍も光っています。

 ビデオカメラやスピードガンなど選手を客観的に評価するための情報が、かつてに比べ大幅に増えている以上、今後は年々優れた選手が順当にドラフト上位で指名される時代になっていくと思われます。そんな予定調和を壊してくれる低評価からのし上がっていく選手は貴重になる分、輝きも増して見えるのでしょう。注目度もアップするのではないでしょうか。

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