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<85歳の関根さんとトークライブを敢行・前編>

 85歳になられた今も、テレビ、ラジオで野球解説を続けている関根潤三さん。僕は2003年1月、関根さんの野球殿堂入りが決まった直後、初めて取材でお会いしたのですが、このたび再会することができました。

 11月末日、東京・神田神保町の書店にて開催された、『伝説のプロ野球選手に会いに行く』文庫発売記念イベント。そのなかで関根さんをお招きしたトークライブがあり、僕は聞き手を務めさせていただいたのです。



 宮崎、沖縄のキャンプ地で取材中のお姿を見かけ、挨拶したことは何度かあっても、面と向かって関根さんとお話しするのは約10年ぶり。細身の体が、よりほっそりとした印象は受けましたが、柔らかで落ち着いた物腰は変わっていなくて、控え室で対面したときから即会話が始まっていました。

 1927(昭和2)年生まれの関根さんは、日大三中(現日大三高)時代から左腕投手として活躍。法政大では東京六大学史上4位の41勝をマークすると、高校・大学を通じて恩師の藤田省三が監督に就任した近鉄に入団。ちょうど、日本プロ野球がセントラルとパシフィックに分裂した50年からプレーしています。

 現役時代最晩年の65年、巨人に移籍したとき、関根さんは投手ではなく外野手。近鉄では3年連続2ケタ勝利を挙げるなど十分な結果を残していましたが、57年のシーズン途中、左肩痛もあって自ら打者へ転向。バッティングでも実力を発揮して、投手と野手両方でオールスターに出場するという、史上唯一の選手でもありました。

 そんな関根さんに、あらためてお話をうかがたいと思ったのは、本書に登場する伝説の野球人であるということに加え、今回の文庫化=増補改訂のテーマが<球界黎明期>だからです。
 現在のNPBに連なる日本プロ野球(日本職業野球連盟)が誕生して間もない黎明期。10代の野球少年だった関根さんの目に、プロの選手はどう映っていたのか、興味がわきました。

 トークライブの冒頭、スーツ姿の関根さんは、観客の方々に向かってこう挨拶しました。
「こういう格好をすると、ヘタなことを言えないってんで、非常に緊張します。だから、今日は上品な話で終わろうと思います。だけど一生懸命、話をします。よろしくどうぞ」

 そう言いながら、「実は今日、なんにもわかんないで来たんですよね(笑)」と打ち明けた関根さんですが、「今から70年以上前、プロ野球をどう見ておられたか、うかがいたいと思います」と僕が言うと、淀みなく話が始まりました。

「まず、プロ野球。野球を商売にするってことは全然、思ってなかったんですね。特に私の両親なんかは、野球ってのは学校だけでやるもんだと、いうような感じで。わたしも学校には、野球部に入るつもりで行ったんですがね。
 だんだんやってる間にね、プロ野球というものをちょっと観に行ってみるかな、という気持ちがひとつあったのと、心のどっかに、野球を商売にしやがってという、反発もあったことは確かなんです。野球っていうのは、心身の鍛錬が目的で、だから学生野球ができるんだという、そういうふうに教育されてたもんですから」

「だけど、時代が進んで、野球もだんだん深みがわかってきて、プロへ行って活躍してる選手をたまに見ると、さすがだな、という。野球に対する欲望が芽生えまして、プロ野球というのは観るのがいいなと、いうふうに思った。
 ただ、プロに入って野球やる気はまるっきりなかった。私の両親も、『大学で野球をやって、心も体も磨いて』って、実は磨いていないんですけどね(笑)、親の思うぐらいね。実際には悪いことばっかりしてたんですけど、親は、野球、スポーツで心身を鍛錬して、そいで会社へ勤めて、人生をそこで過ごすと。これが、親としての願いだったみたいなんです。
 だから、僕もそういうふうに思ってました。そうしましたら、横道に逸れました(笑)」

 プロフェッショナルというよりも、野球を商売にする、お金を稼ぐ。そのことに対する反発もあったなんて、今では想像もつかないでしょう。関根さんの言う「横道」とは、学生⇒社会人という真っ当な道から逸れた結果としてのプロ入りを意味しています。



 それでも、野球を続けるうちに関根さんは、徐々にプロ野球そのものに魅力を感じていた様子。そのなかで日大三中時代の関根さんが、「伝説の名投手」といわれる巨人軍の沢村栄治に会っていた、という事実を、僕は最近になって知りました。

「沢村さんね、会ったことあります。日大三中のね、多摩川のオリンピア球場って、おわかりにならないかもしれませんけど、川っ淵にあったんですね、野球場が。そこで日大三中は練習してたわけです、ずーっと。そしたら、ある日ね、巨人の合宿が多摩川のすぐわきにありまして、あれ、どっかで見たおじさんが、どてらを着て、俺たちの野球を見ているなと。そういう感じだったんです」

「で、誰だアレ、誰だアレって言ってたら、誰かが、『あれ、沢村さんじゃねえか』っつって。ちょうど沢村さんが戦地へ行って帰ってきて、復員して、巨人のグラウンドにいて、そいで、なんか学生か可愛い坊やが野球やってから見にいこうかなといって、見に来てたんですね」

 職業野球連盟の公式戦がスタートした36年、沢村は史上初のノーヒットノーランを達成。快速球と鋭く落ちるドロップを武器に、翌37年も二度目のノーヒットノーラン達成などエースとして大活躍したのですが、38年から2年間、兵役を務めています。
 関根さんが出会ったのは、沢村がこの兵役を終えたあとでした。

「沢村さんは何回か、見に来てくれて。僕らも親しみを持って、沢村さんのところへ話にいったりなんかして、チームのことを教えたり、なんかしましたね。
 で、ひとつね、私、いい思い出があるのは、沢村さんに『キミ、どうする?』って言われたから、『どうするって、このまま野球やります』って答えたら、『キミね、素質があるからちゃんとやんなよ』って言われたことなんです」

「『素質があるから』って言われたの、初めてだったんです、私。中学生のときね。だからそれ以来、沢村さん大好きになっちゃいまして、ハイ(笑)。
 沢村さんは私のピッチングを見て、あそこはこうしたほうがいいよ、ここはこうするといいよ、というふうに教えてくださいました。それだけに、沢村さんが亡くなられたときはショックでしたね」

 復員後の沢村は調子が万全ではないなか、40年、三度目のノーヒットノーランを成し遂げています。僕はこれこそ「伝説の名投手」と呼ばれる由縁と思うのですが、沢村はその後も兵役を務め、三度目の応召でチームを離れたあと、戦死しています。
 まさに、戦争の犠牲になったプロ野球選手。関根さんがその沢村を大好きになったのも、やはり、巨人軍が当時から、プロのなかでも別格だったからなのでしょうか。

「どうでしょうねぇ。その当時の私はあんまりね、プロのことはわかってないんですよね。ピンとこなかったです。だけどね、沢村さんだけはね、プロじゃないんですよね。軍人さんですから。復員してきて、多摩川で、私たちの野球を見てくれた軍人さんなんです。
 そういう人に『素質があるよ。上手くなるから、がんばんなよ』って言われたもんで、自信持っちゃってね。俺はピッチャーで、もしかしたらいけるぞ、って思ったんです」

 少年時代の関根さんにとって、沢村はプロの選手ではなくて軍人だった−−。いや、それは関根さんに限らず、少年に限らず、だったのでは――。
 まだトークライブの冒頭、自分で抱いていた「伝説の名投手」のイメージが、ガラリと変わりました。(次回につづく)




<編集部よりお知らせ>
1)facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。『野球太郎 No.001』では、板東英二氏にインタビュー。11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行した。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント @yasuyuki_taka

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