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「W」マークの帽子、マリンブルー、YOKOHAMAの文字……。「横浜大洋ホエールズ」の時代


 5月10日から12日まで、横浜スタジアムで行われたDeNA対中日3連戦。このカードでは、懐かしいユニフォームが復活した。

 ホームであるDeNAの選手たちが身にまとったのは、1978年から1992年まで15年間着用していた横浜大洋ホエールズ時代のユニフォーム。本拠地が、川崎球場から当時新設された横浜スタジアムに移り、港町・横浜をイメージしたマリンブルーがチームカラーとなった。

 何よりも斬新だったのは、ホーム用ユニフォームに「YOKOHAMA」と、チーム名ではなく地名が入った点だろう。チームは15年間でAクラスがわずか3回、最下位は3回と、決して強いチームではなかった。

 しかし今でも、多くのプロ野球ファンには「横浜大洋ホエールズ」の記憶は残っている。そんな「横浜大洋ホエールズ」の時代を改めて振り返ろう。

高木豊、加藤博一、屋鋪要の「スーパーカートリオ」


 1985年、当時の近藤貞雄監督は1番・高木豊、2番・加藤博一、3番・屋鋪要と、俊足の選手を1番から3番まで並べた上位打線を考案。その後、当時のスピードの象徴であったスーパーカーにちなんで、3人は「スーパーカートリオ」と命名された。

 この年、3人は走りに走った。前年に盗塁王を獲得した高木は42盗塁、キャリアハイの129試合に出場した加藤は48盗塁、屋鋪は58盗塁をマーク。盗塁王は73盗塁を挙げた高橋慶彦(当時広島)に奪われたものの、3人で計148盗塁を記録。1つの球団で3人の選手が40盗塁以上を記録したのは、プロ野球史上初の出来事だった。

 その後、屋鋪は翌年の1986年から3年連続で盗塁王を獲得。チームの看板選手となったほか、高木は主力選手として活躍。加藤は貴重な名バイプレーヤーとして、ファンから愛された。


優秀な助っ人外国人が活躍


 川崎球場時代から有能な外国人スカウト・牛込惟浩氏(今年4月に逝去)の力もあって、クリート・ボイヤー、ジョン・シピンといった、優良外国人が活躍していた大洋。横浜移転後もそのよい流れは続いた。

 1979年に入団したフェリックス・ミヤーンは、バットを水平に構える独特のフォームから安打を量産。打率.346で首位打者を獲得した。

 さらに1986年にはカルロス・ポンセが入団。4番打者として活躍し、本塁打王1回、打点王2回と結果を残す。何よりもその風貌が、当時流行していたゲームソフト「スーパーマリオブラザーズ」の主人公に似ていたため「マリオ」と呼ばれた。

 1988年に入団したジム・パチョレックは、1年目から首位打者争いを演じて、確実性の高い打撃で、ポンセとともに中軸を形成。1990年には首位打者に輝いている。

 また1991年入団のR・J・レイノルズは、同年にプロ野球記録となる11打数連続安打をマーク。走攻守三拍子揃ったプレーで、ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。

横浜大洋ホエールズとともに生きたエース・遠藤一彦


 横浜に移転した1978年に東海大から入団したのが遠藤一彦だった。2年目の1979年に12勝を挙げて台頭すると、先発ローテーションの一角に加わる。

 なかでも1983年は18勝9敗、186奪三振と、最多勝と沢村賞を受賞して大きく飛躍を遂げる。さらに翌1984年も17勝をマークして、2年連続で最多勝を獲得。

 ただし、この年に17敗を喫したことは、当時の大洋の状況を表していた。大洋のみならず、リーグを代表するピッチャーとなった遠藤だったが、1987年の終盤には右足のアキレス腱を断裂。1982年から続けていた2ケタ勝利も、1988年には途絶え、現役引退の危機を迎えた。

 しかし1990年、先発から抑えに配置転換となった遠藤は、21セーブを挙げ復活。カムバック賞を受賞した。そんな遠藤も1992年限りで引退を表明。引退試合となった10月7日、本拠地での巨人戦はシーズン最終戦。くしくも「横浜大洋ホエールズ」としての最後の試合だった。遠藤は先発し「横浜大洋」とともに歩んだ15年間の現役生活に別れを告げた。


文=武山智史(たけやま・さとし)

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