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知っていると自慢できる!甲子園大会のあんな話こんな話

文=鈴木雷人

 1915(大正4)年に産声をあげた夏の甲子園大会は今年で95回目を迎える。数々のドラマを生み、いまだに語り継がれる名シーンもたくさんあるが、今週は「高校野球ジャーナル」らしく、普通の話題は他誌に任せて、夏の甲子園大会にまつわるディープな話をまとめてみた。

 甲子園大会期間中に帰省したとき、この話をすれば自慢できること間違いなし!? の“夏の甲子園よもやま話”。もちろん帰省する予定のない読者の皆さんも、知っておいて損はありませんので、是非ご一読を。

そもそも甲子園大会が始まったきっかけとは?


 今からなんと98年前! 1915(大正4)年の6月下旬、関西を拠点とする一大グループ企業・阪急の事業部に所属していた吉岡重三郎という人が朝日新聞社を訪ね「豊中に立派なグラウンドが出来たから、何か盛大なことをやらないか?」と相談したのがきっかけ。朝日新聞の田村木国(たむら もくこく)という運動記者が「各地で試合をして、勝ったチームを集めて大会をやれば面白いだろう」と案を出して、それが採用された。その間わずか30分で、世界でも類をみない、史上最大の野球大会が計画されたのだった。

 今では考えられないが、第1回大会は主催者の朝日新聞社が全国各地の学校に出場を勧誘してまわったという。

 その苦労は様々で、例えば、野球熱の高い広島地方などは熱狂的なファンが多く地方大会では恐れをなして誰も審判をやってくれる人がいなかったので、朝日新聞社の社員が審判を務めたという話もある。

 また、山陰大会でも島根と鳥取の対抗意識が激しく、優勝戦はどこで行っても“血を見る”危険があるので、優勝戦は大阪に場所を移して行われたそうだ。

 結局、本大会より一足先に、鳥取中学と杵築中学は豊中球場で“山陰大会決勝戦”として試合を行ったという…。こうした苦労を重ねて、発案からわずか1カ月半で地方大会を含めた第1回大会が開催された。

プラカード女子の秘密


 夏の甲子園大会の開会式をより一層華やかにするプラカード女子たち。出場校名が書かれたプラカードを持って球児を先導する彼女たちは、兵庫県の西宮市立西宮高校の女子生徒だ。代表校を先導するようになったのは1949(昭和24)年の第31回大会からで、以降はのべ3000人近くの女子高生たちがプラカードを掲げたことになる。

 もともとは戦後の学制改革で中等学校が高等学校に改称されるなどして、学校名が変わったことを受けて出場校を印象づけるために始まったのがきっかけ。ちなみにその市立西宮高校は第45回大会に兵庫県代表として初出場するも、残念ながら1回戦で静岡高に1−4で敗れた。

初の実況放送はハプニング続出!


 ズバリ、日本のスポーツ界で初めて実況中継を行ったのが夏の甲子園大会だ。1927(昭和2)年の第13回大会で、JOBK(NHK大阪放送局)がラジオの実況中継を開始した。それまではスポーツニュースの形で試合経過をその都度伝えていたが野球熱の高まりとともにNHKへ野球中継するよう、要望が高まったという。

 主催者の朝日新聞社に中継を交渉するも「ラジオで放送されると、球場に来る人が減るのではないだろうか」と反対の声もあったそうだ。

 最終的に中継放送は実現し「JOBK、こちらは甲子園臨時放送所であります」という第一声を発したのは魚谷忠アナウンサー。実はこの人物、1916(大正5)年の第2回大会で市岡中の三塁手として出場経験がある元球児で、大の野球ファン。日本初の野球中継では試行錯誤もあり「打ちました、大きなフライ! あっ、センターとりよった。エライやっちゃ!」と思わず関西弁が飛び出した、といった伝説も残っている。

誰もが知ってる“栄冠は君に輝く”の泣ける話


 「雲はわき、光あふれる…」と、高校野球ファンなら誰もが知っている“栄冠は君に輝く”だが、この歌には隠されたドラマがある。1948(昭和23)年の学制改革の機会に、朝日新聞社が「全国高等学校野球大会の歌」を募集した。

 当時、石川県金沢市で文筆活動をしていた加賀大介という人物が作詞し、婚約者であった道子さんへのプレゼントとしてその作者を「加賀道子」として応募したが、なんと! 応募5,252通の最優秀作として見事当選。作詞者は長い間「加賀道子」となっていた。

 しかし、1968(昭和43)年の第50回大会の際に加賀氏が「実は…」と打ち明け、その後は正式に作詞者は「加賀大介」となった。加賀氏は20年間も本当のことを言うか悩み続けたという。

 ちなみに、この加賀氏は17歳の時に野球で右足に擦り傷を負い、それが原因でやむなく膝から下を切断。野球が大好きだったがそのケガで断念せざるを得なくなり、白球を追い続けた少年時代の想い出や甲子園への憧れを込めてこの素晴らしい作詞を完成させたという。



「カキーン!」と今夏も金属音が鳴り響く


 続いて、今では当たり前になった金属バットの話。「カキーン」と甲子園に響き渡るあの金属音はもはや高校野球の代名詞になった感もあるが、夏の甲子園で導入されたのは1974(昭和49)年の第56回大会から。

 一度折れたら使用できない木製バットに比べ、耐久性が高く“経済的である”という理由で導入された。しかし実際は、木製よりも金属のほうが飛距離が伸びるということで現在はほとんどのチームが金属バットを使用するようになった。

 しかし、その急激な人気で生産が追いつかず、外国製の粗悪品も流通。1985(昭和60)年の地方大会では折れないはずの金属バットが折れる事故が多発し、甲子園大会中にも試合前に念入りなチェックが行われたことも。ちなみにこの金属バットの本家はアメリカで、素材などはアポロ計画などの宇宙開発の技術がもたらした産物といわれているが、悲しいことに野球が盛んでない国では“護身用具”として売られているケースもあるそうだ。

 プロ野球とは違う、高校野球の魅力とは何だろうか。高校野球は選手や監督以外にも関わる人々が数多くいる。その人々が起こすドラマが、高校野球にはある。今から約100年前に発案された夏の甲子園大会。そうやって紡ぎ続けてきたドラマは、何年経っても色あせることはないだろう。

文=鈴木雷人(すずき・らいと)/会社勤めの傍ら、大好きな野球を中心とした雑食系物書きとして活動中。自他共に認める「太鼓持ちライター」であり、千葉ロッテファンでもある。Twitterは@suzukiwrite

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