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50歳までやり遂げた球界のレジェンド! 中日・山本昌引退を語る

 HP上のエッセイが更新されたのは9月26日未明のこと。「決断しました」というエントリーから、32年間にわたる長い現役生活の終焉を感じさせた。

 「今シーズン限りでユニホームを脱ぐことを決めました。(中略)きのうチームの今季最終戦でナゴヤドームに行き、若返りを推進しているドラゴンズの現状を目の当たりにして、ボクが残ったらダメだと強く感じ、引退を決めました。(中略)本当に長い間、ありがとうございました。(本文より)」

 球界の“レジェンド”と呼ばれた男・山本昌がついに引退。今回はその野球人生を振り返ってみたい。


◎邁進期(1984〜94年):無名の左腕が米国留学で開花。中日の看板投手へ

 山本昌は日大藤沢高から1984年ドラフト5位で中日に入団。当時から体は大柄だったものの、他に特段目立ったところはなし。甲子園出場もなく、中日ファンの父と高校の監督に背中を押される形でプロ入りを果たしたという。

 球団は左腕の代名詞・背番号34を与えたが、4年目まで鳴かず飛ばず。直球のスピードは130キロ前後で、当時の星野仙一監督(現・楽天副会長)からは「いつになったら本気で放ってくれるんだ?」と声をかけられた。整理選手の候補に挙がるのは時間の問題だった。

 転機は5年目の1988年に訪れる。チームはアメリカ・ベロビーチでの春季キャンプから帰国するも、山本昌にはそのまま居残りを指示。ロサンゼルス・ドジャース傘下の1Aへの野球留学を命じた。言ってしまえば、留学という名の“島流し”だ。

 しかし、これが伝説への序章になるのだから面白い。チームメートの内野手から教えられたスクリューボールを武器にし、多くの実戦経験で自信をつけた。留学当初は不貞腐っていたが、いつしか世話役のアイク生原氏の教えに耳を傾けるようになる。すると、夏場には日本へ呼び戻され、2度の完封を含む5勝をマーク。チームの優勝に貢献し、本格的に山本昌のプロ野球人生が始まった。

 翌1989年からは6年連続で規定投球回到達。5歳年下の左腕・今中慎二とWエースを張り、1993年は今中が、翌年には山本昌が沢村賞に輝いた。まさに互いを高め合う、良きライバル関係だった。


◎変革期(1995〜2004年):長寿へと繋がったトレーニング。理論を身につけた30代

 30歳となった1995年、2度目の転機を迎える。この年は左ひざ痛の影響でわずか2勝に終わったが、“レジェンド”の土台を築き始めた年でもあるのだ。トレーニング研究施設・ワールドウィングと出合い、同施設の小山裕史先生が提唱する「初動負荷理論」に師事。オフには施設のある鳥取まで足を運び、筋肉と関節にまつわる様々な動きを学んだ。

 この学びが結果として現れたのが1997年。自身初の開幕投手を任されるなど(すなわちナゴヤドーム公式戦第1球を投げたことになる)、先発の柱として奮闘し3年ぶり3度目の最多勝を獲得。本人も著書『奇跡の野球人生50の告白(ベースボールマガジン社)』で《 勢いで獲ったのが93、94年の最多勝とするなら、97年は理論で獲った最多勝》だと振り返っている。

 その後も安定した活躍を続け、30代の10年間のうち8シーズンで規定投球回へ到達した。また、前述1997年を含む4度の2ケタ勝利を記録。特に2004年は13勝を挙げ、落合博満監督初年度リーグ制覇の立役者となった。そしてこの年のオフ、ついに年俸が2億円を突破した。


◎不惑期(2005〜09年):大記録達成に通算200勝。40歳を超えても第一線で活躍

 40歳を超えた頃から、山本昌を“中年の星”と呼ぶ人が増えてきた。同世代の選手がユニホームを脱いでいく中、1球1球を丹念に投げ込む姿に共感を覚えるのだろう。

 2006年には大記録を達成した。9月16日の阪神戦で、ノーヒットノーランを成し遂げたのだ。最年長記録となる41歳1カ月での達成はもちろん、出したランナーは失策による1人のみと、まさに素晴らしいのひと言だ。この試合唯一の走者を出してしまった三塁手・森野将彦に対し、「あれがあったからこそ、ノーヒットノーランを達成できた」と気遣うコメントを出したところにも、山本昌の人柄が表れている。

 2年後の2008年8月4日には通算200勝をマーク。まもなく43歳を迎える状況での大台到達、そしてこの試合を完投で飾ったことで、肉体と精神の充実ぶりを見せつけた。前年はわずか2勝に終わり引退もちらつく中、シーズン全体では11勝をマーク。まだまだ投げられることを結果で示した。


◎レジェンド期(2010〜15年):投げる度に最年長記録を更新。50歳シーズンで身を退く

 ドラフトでは下位指名。全盛期も絶対的なエースではなく、2枚看板の一角だった。長く現役を続けることに関しても、2歳上の工藤公康(現・ソフトバンク監督)を道標にしてきた。しかし45歳になって以降は、投げる度に何かしらの最年長記録を更新する立場となっり、これまで以上に一挙手一投足が注目されるようになった。体のケアにも人一倍気を遣い、趣味に費やす時間とエネルギーをそのまま野球へ充てた。

 2010年には45歳0カ月で最年長完投・完封勝利を挙げ、12年4月30日の通算212勝目は杉下茂を超える球団最多勝利に。翌13年には48歳0カ月で安打と打点を記録した。そして、49歳1カ月で迎えた2014年9月5日の阪神戦で最年長勝利を達成。5回を無失点に抑える好投だった。

 50歳シーズンの今季は、度重なるケガに苦しんだ。3月の春季教育リーグで右ひざをひねり長期離脱(のちに骨棘骨折と判明)。8月9日の1軍初登板では、本人も解らぬ形で左人差し指を痛めてしまう。これが引退への直接的な原因だとしたら、もう一つの原因は冒頭のエッセイにもあったチームの若返り。45年ぶりの3年連続Bクラスに沈み、多くのベテランが引退を決める中、自分は来季も投げて良いのか――答えは「ノー」だった。

 シーズン最終戦の10月7日、マツダスタジアムでの広島戦が引退試合となった。打者1人限定のマウンド。左人差し指が万全でないために、投げられる球種は奇しくも長きにわたる活躍を支えたスクリューボールのみ。その伝家の宝刀で1番・丸佳浩をセカンドゴロに打ち取ると、山本昌の涙腺は決壊した。誰よりも長く、勝負師としてグラウンドに立った投手の戦いが終わった瞬間だ。


 引退後は早速スーツに着替え、精力的な評論活動を行っている。的確で説得力のある言葉は、整理対象からレジェンドまで様々な立場を経験したことや、30代以降に身につけた理論・メカニズムと無関係ではないだろう。今はその評論を楽しみつつ、あの大きく振りかぶる投球フォームを記憶に強く留めておきたい。そして、いつの日かまたドラゴンズのユニホームに袖を通す姿を見せてほしい。


次回12月29日(火)は『プロ野球引退物語2015』中嶋聡編と斎藤隆編を公開予定(*本文中の年俸は全て推定)


文=加賀一輝(かが・いっき)
ダルビッシュ有と田中将大に挟まれた世代の野球好き。地元・中日と、初めて仕事を受け持ったオリックスを中心に、プロアマ海外問わず各地の野球を愛でる。外野応援、メディア、登場曲など、野球の周辺にあるカルチャーが大好物。

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