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起爆剤となってチームを救った!「シーズン途中の駆け込み補強」選手名鑑/第25回

「Weeklyなんでも選手名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。
 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第25回のテーマは「シーズン途中の駆け込み補強」選手名鑑です。

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 球団間のトレードや、新外国人選手の獲得期限は7月31日。あと1カ月に迫ったタイムリミットを前に、補強に関するニュースが飛び交っています。6月18日から20日にかけて、西武、広島、DeNA、中日、楽天がそれぞれ新外国人選手を支配下登録。

 22日にはロッテが昨シーズンまで阪神でプレーしていたブラゼルの獲得を発表しました。MLBほどシーズン中の選手の入れ替えが盛んではないNPBですが、それでも開幕時の目算が狂った球団が編成に手を入れてくるのがこの時期です。今回は、期限の迫った時期に、印象的な緊急補強で移籍した選手をピックアップします。

1988年<>ブライアント(近鉄)

 ブライアントは1981年、20歳でドジャース傘下のマイナーチームでプロ野球選手としてのキャリアをスタート。5年目の85年にメジャーデビューを果たすが定着できず、以降87年までの3年間で出場は79試合。3Aでは長打力を見せていたが、確実性を欠き、伸び悩んでいた。

 そんなブライアントに88年の5月、ドジャースと太いパイプを持っていた中日への移籍話が持ち上がりこれが実現する。当時NPBの外国人枠は、支配下登録は3人まで許されていたが、出場選手登録は2人しかできなかった。

 中日には、86年に放出した牛島和彦に代わり抑えを務めていた郭源治と、来日して2シーズンで60本塁打と実績を残していたゲーリーがいた。ブライアントの獲得は、両者に何かがあった場合に備えた典型的な「第三の外人」としての獲得だった。

 このブライアントに近鉄が目をつける。オグリビーとデービスの外国人野手二枚を擁し、王者西武を追っていた近鉄は、6月7日にデービスが大麻の不法所持で逮捕されるというトラブルに見舞われていた。

 直後より新外国人獲得に動きだすと、ウエスタンリーグで日本の野球に適応する兆しの見せていたブライアントの譲渡を中日に打診。中日内部にもスカウトを中心に渋る人々はいたが、当時の期限ぎりぎりの6月28日に金銭トレードが成立。中日とブライアントの契約は年俸700〜800万円といわれており、近鉄が中日に支払った額は高くはないものだったことだろう。

 ブライアントは、移籍発表翌日の日本ハム戦に6番レフトで先発出場。7月1日からの西武との3連戦では近鉄の3タテに貢献。この連勝により、近鉄は西武の独走を食い止め、マッチレースに持ち込むことに成功する。ブライアントは8月に入ると22試合で13本の本塁打を打つなどさらに調子を上げていく。気持ちよく三振を重ねる試合も多かったが、1試合3本塁打を二度記録するなど固め打ちもよく見せた。

 チームは長い連勝を繰り返し、西武を猛追。一時は8あったゲーム差を1まで縮め、10月19日には「勝てば逆転優勝」という条件で最終戦を迎える。

 のちに「10.19」と語り継がれるようになる伝説の試合にブライアントは3番レフトで出場。8回表に34号の勝ち越し本塁打を放ち、さらに10回表、近鉄最後の攻撃でも打席が回り、二ゴロながら相手のエラーで出塁している。

[ブライアント・チャート解説]


【緊急度:5】……首位西武が序盤から独走しかけており、唯一それを追うことができた近鉄にとって主軸打者の離脱は痛すぎた。
【期待度:3.5】…NPBではウエスタンリーグでの出場経験しかなく、本塁打は多いが三振も多いブライアントへの評価は観る人によって違った。
【即効度:5】……130試合換算で59本というハイペースで本塁打を量産。文句なし。

【緊急度】チーム状況として、その選手をどれだけ求めたか
【期待度】能力に対する期待の高さ
【即効度】移籍したシーズンにどれだけ活躍したか
を5段階評価した(以下同)。


1989年デストラーデ(西武)

 88年、「10.19」を経て僅差で近鉄を振り切り優勝した西武だったが、翌年はさらに戦力差を詰められた。

 左腕のエース・工藤公康が肝臓を壊し不調、前年38本塁打を放ったバークレオが不振に陥るなど投打で問題が重なり、4、5月には最下位に沈む時期も。そこで、バークレオに替わる新外国人選手として呼び寄せたのがデストラーデだった。

 19歳でヤンキース傘下のマイナーチームと契約を結んだデストラーデだったが、ケガもありなかなか芽が出ず、1A、2A級でプレーする日々が続いた。7年目にようやく3A級に昇格、8年目にメジャーデビューを果たす。だが結果は出せず、翌88年にパイレーツへとトレード。ここでもメジャーとマイナーを行き来していた。

 メジャーでは活躍できなかったが、3Aではシーズン換算で30本強の本塁打を打っていたことから長距離砲を求めるNPBのスカウトたちの目に留まるようになる。89年のシーズン前には阪神が接触し獲得しかけていた。

 西武はそんなデストラーデに接触し、契約をまとめる。6月7日に来日させ、20日に1軍の試合に5番DHで起用。この試合で早速本塁打を放つ。徐々に調子を上げたデストラーデは、8月に10本、9月に8本の本塁打を打ち、この2カ月を31勝13敗1分という西武の猛烈な追い上げに貢献した。

 幼い頃キューバからアメリカに亡命し、異文化の中で育った経験のあるデストラーデは、日本の野球になじむ努力を怠らずそれが成功につながったと言われる。31歳で西武を離れると、アメリカの故郷・マイアミにできた新球団、マーリンズに移籍。20本塁打を打つ活躍を見せ、故郷に錦を飾った。

 なお、デストラーデは95年に西武に復帰しているが、この時は前年オフに契約しシーズン当初から在籍していた。不振を極め6月9日に退団したが、これに対し西武が代替の外国人選手を補強することはなく、その結果3位に終わっている。

[デストラーデ・チャート解説]


【緊急度:5】…前年日本一になりながら最下位転落を喫するなど目算の狂った西武。クリーンアップを任せられる新外国人野手の獲得は手の打ちやすい対処だった。
【期待度:3】…過去に大ケガを負っており、メジャーでの実績がわずかしかないことから年俸は格安の3250万円。これは当時の期待の程度を示すものと考えるならば期待度は3か。
【即効度:5】…最下位から優勝争いに加わる追撃は、デストラーデなしにはあり得なかった。

1992年大久保博元(巨人)

 大久保が巨人に移籍したのは8年目、25歳のシーズンだった。西武での7年間で出場試合は103試合。23本のヒットのうち6本が本塁打と天性の片鱗は見せていたが、森祇晶監督ら首脳陣とそりが合わず出場機会を与えてもらえずにいた。意地になった大久保は1軍から声がかかりながら、ケガを装って断ったこともあったと言う。関係は完全に冷えきっていた。

 そこで大久保と同じ茨城県出身で獲得に深く関わった球団管理部長(当時)の根本睦夫が動き、5月8日に巨人との間で大久保とベテラン捕手・中尾孝義とのトレードを実現させた。

 その頃の巨人は、長らく正捕手を務めた山倉和博の引退に伴い、他球団で実績のある捕手を獲得し併用しながら村田真一らを育てていた。92年はこの村田と、オフに阪急から移籍してきた藤田浩雅、若手の吉原孝介、そして中尾の4人が交代でマスクを被っていた。中尾、藤田の獲得、村田の起用などからもわかるように、捕手に一定の打力を求めていた巨人にしてみれば、長打力のある捕手で、しかもまだ25歳と若い大久保は魅力的に映ったことだろう。しかも巨人は、序盤戦で完全に出遅れて5月には最下位に沈んでいた。“カンフル剤”が必要な状況にあった。

 大久保は5月12日に代打出場。翌日初のスタメンマスクを被るとそのままレギュラーに定着する。7月後半の球宴までに12本塁打を記録する活躍を見せた。打撃だけではなく、西武仕込みの内角を徹底的に突く配球も評価された。

 大久保の愛称にちなんで名付けられた“デーブ効果”で、巨人は波に乗る。10連勝、4連勝、7連勝と勝ちまくり、夏には首位争いに復帰。大久保には読売新聞社から特別ボーナス2000万円が出たことでも話題を呼んだ。

 しかし、8月以降は調子を落とし村田や吉原にマスクを譲る。やや尻すぼみではあったが、大久保がこの年の巨人の2位という成績を支える、貴重な戦力となったのは間違いない。

[大久保博元・チャート解説]


【緊急度:3.5】…春先から勢いに乗れず、大洋との最下位争いを演じるなど巨人は不振を極めていた。問題は多々あったが固定できなかった捕手はその1つ。
【期待度:3.5】…打撃はともかく西武時代はマスクを被る機会はほぼなく、大久保のリードは未知数だったと見られる。
【即効度:4】……移籍直後から打撃だけでなく好守でも貢献し、チームも浮上した。


その他「シーズン途中の駆け込み補強」選手たち

1989年角盈男(日本ハム)
 西武の不調で6月まで3位を維持していた日本ハムが補強を図るべく、巨人で働き場所を失っていた角の譲渡を求めた。条件はまさかの“無償”だったが、巨人はこの年33歳になる功労者に「活躍の場を提供できるのであれば」と角の意思にまかせる形で受諾。これを受け入れた角は、日本ハムで先発として再生する。移籍発表の翌日の7月1日には選手登録されペナントレース終了まで10度先発。3勝4敗ながら防御率3.39と奮闘した。2度の完投も。

1992年パウエル(中日)
 マリナーズでメジャーと3Aを行き来していたが、同じ外国人外野手のライアルが故障した中日のオファーを受け来日。5月23日より出場すると、88試合に出場し13本塁打、打率.308を記録した。しかしチームの調子は上がらず最下位に。

1994年岸川勝也(巨人)
 左腕・吉田修司とのトレードで6月にダイエーから巨人に移籍した。ペナントレースでの出場は25試合に終わったが、王手をかけて臨んだ西武との日本シリーズ第6戦で、工藤公康からタイムリーツーベースを放ちヒーローに。

1996年マリオ(巨人)
 当時の長嶋茂雄監督が高く評価し、ダブルストッパーに据えた西山一宇と石毛博史が不調に陥り、その穴を埋めるべく台湾球界から獲得。当時巨人に在籍していたガルベスの元同僚だった。5月7日に初登板。順調にクローザーとしての役割を務め、崩壊していたリリーフ陣を立て直し“メークドラマ”のお膳立てをした。しかし、終盤は調子を落とし川口和久にクローザーを譲った。

2003年ズレータ(ダイエー)
 小久保裕紀の離脱により攻撃力に不安が生じたダイエーが獲得。6月23日に入団した。67試合で13本塁打。守備に難はあったが、期待されていた攻撃面ではよく貢献し、チームは日本一に。

2006年木村拓也(巨人)
 広島のマーティ・ブラウン監督(当時)が若手を起用する方針を打ち出し、34歳の木村は出場機会を失う。自らトレードを志願すると、巨人が若手外野手の山田真介との交換に応えた。移籍発表直後、6月7日に初出場を果たした木村は、その後ユーティリティプレーヤーとして重宝され62試合に出場した。この年のプレーで首脳陣の信頼を得ると、以降2年間続けて100試合を超える出場を果たし、円熟のバイプレーヤーとして存在感を発揮した。

2007年吉井理人(ロッテ)
 当時42歳ながら先発にこだわった吉井は、登板機会を失いトレードを志願。オリックスは6月28日にロッテの外野手・平下晃司とのトレードをまとめたが、吉井は新天地でも復調せず、10月に戦力外通告を受けた。

2007年オーティズ(ロッテ)
 ロッテに移籍していたズレータが故障し、その穴を埋める役割を期待され、6月25日に入団。2003、4年に在籍していたオリックスに続く2度目のNPBへの所属だったが、67試合に出場し打率.284、本塁打も7本放った。
 なお2012年には6月6日に西武と契約。この年も64試合に出場し打率.287、本塁打9本とシーズン途中からの合流への強さを見せた。

2008年セギノール(楽天)
 オリックス、日本ハムでプレーした後、アメリカに戻り3Aでプレーしていたセギノールに楽天がオファー。この年から1カ月後ろ倒しになった期限ぎりぎりの7月29日に契約合意。合流は遅く8月14日からの出場となったが、39試合で13本塁打と長打力を発揮した。打率も.324と高かった。

2010年フェルナンデス(西武)
 2003年からロッテ、西武、楽天、オリックスと渡り歩き、7年間NPBでプレーしてきたフェルナンデスは、2010年のシーズン途中に西武に復帰。57試合で11本塁打、打率.339とよく打ち、故障していた中村剛也の穴を埋めた。

2011年大村三郎(巨人)
 4番を座るなどロッテの中心選手として活躍していたサブローが5月4日に負傷し登録抹消。しかし、1カ月半後の6月29日に巨人の工藤隆人とのトレードが突如発表された。35歳(当時)にして年俸1億3000万円のサブローと30歳で年俸2000万円の工藤(+金銭)のトレードはやや不釣り合いだと言われ、いろいろな噂が沸き立ったが、交換の真相は不明である。
 大村三郎と実名登録となったサブローは、巨人で48試合に出場、打率.243と活躍できなかった。翌年、フロントの刷新に伴いFA権を使ってロッテに復帰した。

2012年エルドレッド(広島)
 ニック、栗原健太らのケガで主軸を欠いた広島が6月21日に契約を結ぶ。統一球環境ながら65試合で11本塁打と一定の長打力を見せた。


★   ★   ★

 トレードをシーズン中にまとめるには、選手の能力を見抜く眼、権限と交渉力、そして独自の人脈を持った編成担当者が不可欠のような気がします。大久保の移籍には“球界の寝業師”と呼ばれた根本陸夫氏がかんでいましたし、角の移籍には日本ハムの近藤貞雄監督(当時)が、積極的なアプローチを仕掛けました。ブライアントを中日から獲得した近鉄の編成部には、直接関与したかはわかりませんが、後に多くの優良外国人の獲得に尽力する市原稔氏が在籍。サブローの移籍には球界に顔の広い瀬戸山隆三球団代表(現オリックス球団本部長補佐)が関わっていたと言われます。

 チームの補強ポイントを正しく見出し、必要な選手をピックアップし、条件を詰めて契約に持っていくという、異なるスキルの必要な作業を速やかに行うのは並の人材ではできそうにありません。かつてはそれをやってのける“豪腕”が存在し得たのでしょうが、現在は球団が企業化し合議によってジャッジが下されているようにも映ります。シーズン中の驚きのトレードや、リーグのパワーバランスを一変させるような新外国人の登場は、なかなか見られない時代なのかもしれませんね。

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