週刊野球太郎
中学、高校、プロ・・・すべての野球ファンのための情報サイト

《ブレーブス外国人選手列伝》バルボン、ブーマーら阪急、オリックスの外国人選手の系譜


 今季、最下位に終わったオリックス。成績が悪かった原因の1つに、外国人選手の不振が挙げられる。ディクソン以外の外国人が、期待したほどの活躍ができなかった。

 外国人選手には、当たりはずれはつきものだが、これほどまで外国人選手が活躍しなかったのは珍しい。やはり外国人選手は、チームの勝利に大きく影響する。そこで、阪急、オリックスで活躍した外国人選手を振り返ってみた。

関西弁の通訳でも人気〜ロベルト・バルボン


 バルボンはキューバ出身の選手。米マイナーリーグを経て1955年に阪急に入団。友人に日本は「フィリピンやハワイと一緒のところ」と聞いていたのに、空港を降りたったところ初めての雪を見た。寒さのあまりそのまま帰りたいと思ったという。

 そんなバルボンだったが1年目から活躍。163安打、105得点、13三塁打はいずれもリーグトップの成績。1958年からは3年連続で盗塁王に輝いた。阪急で10年、近鉄で1年プレーをして引退。その後、通訳として阪急に復帰。関西弁での通訳で覚えているファンも多いだろう。

 バルボンは阪急、オリックスの球団スタッフとして野球教室などで長年チームに貢献した。80歳を超えた今でも、時折球場に足を運ぶという。


アグレッシブな野球博士〜ダリル・スペンサー


 スペンサーは、1964年にメジャーリーグから阪急に入団。初年度から36本塁打と活躍。1965年には野村克也(当時・南海)と三冠王を争うなか、四球攻めにあった。いらついたスペンサーは、バットを逆さまに持って打席に立ったが、それでも歩かされたという。1967年には長池徳二とクリーンナップを担い、阪急初のリーグ優勝に貢献した。

 スペンサーは大きな体とアグレッシブなスライディングで恐れられたが、実は「野球博士」と呼ばれるほどの頭脳派プレーヤーだった。常に相手投手の傾向やクセなどを研究し、メモにとる。そしてコーチや選手に気づいたことをアドバイスした。スペンサーの野球理論や考え方は、日本球界に大きく影響を与えた。

外国人選手初の三冠王〜ブーマー・ウェルズ


 本名はグレゴリー・ウェルズ。ブームを起こす男ということで「ブーマー」の登録名となった。1983年阪急に入団。1984年には打率.355、37本塁打、打点130の成績で外国人選手初の三冠王とMVPに輝き、チームのリーグ優勝に貢献した。その後も1987年に打点王、1989年に首位打者と打点王の二冠、1992年にはダイエーに移籍し打点王を獲得した。

 ブーマーは打撃だけでなく、一塁の守備もうまかった。身長2メートルで手足が長く、一塁への送球の大きな的となった。1986、1987年と2度のゴールデン・グラブ賞を受賞している。

 ブーマーは日本でのプレーを楽しんだ。「野球は仕事だと思ってはダメだ。野球はゲームなのだから楽しまないと」とチームメイトに言った。チームにそれが浸透すると勝てるようになってきた。きつい練習でも楽しく笑いながらできる、そんな雰囲気がよかったとブーマーは振り返っている。


まだいる記憶に残る外国人選手


 この他にも、阪急を初の日本一に導いた二塁手・マルカーノ。リリーフが成功すると暴れまくったアニマル。日本シリーズMVPのニールなど、記憶に残る外国人選手は数多く在籍した。

 オリックスはこのオフシーズン、長谷川滋利がシニアアドバイザーに就任することを発表した。外国人補強に対する助言を行うという。秋季キャンプでも新外国人候補の選手をテストしている。

 来季こそ、成功できる外国人選手を獲得し、オリックスの勝利に貢献することを期待する。


文=矢上豊(やがみ・ゆたか)
関西在住の山本昌世代。初めてのプロ野球観戦は、今はなき大阪球場での南海対阪急戦と、生粋の関西パ・リーグ党。以来、阪急、オリックス一筋の熱狂的ファン。プロ野球のみならず、関西の大学、社会人などのアマチュア野球も年間を通じて観戦中。

記事タグ
この記事が気に入ったら
お願いします
本誌情報
雑誌最新刊 野球太郎No.32 2019ドラフト直前大特集号 好評発売中
おすすめ特集
2019ドラフト指名選手一覧
2019ドラフト特集
野球太郎ストーリーズ
野球の楽しみ方が変わる!雑誌「野球太郎」の情報サイト
週刊野球太郎会員の方はコチラ
ドコモ・ソフトバンク
ご利用の方
KDDI・auスマートパス
ご利用の方