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指導歴50年・渡邊元智監督の「最後の夏」。自らに大きな負荷をかけた一言とは――

【この記事の読みどころ】
・ケガで大学野球部を退部後、母校・横浜高校の野球部コーチへ
・3年後に監督昇格、スパルタ方式でセンバツ優勝をもぎ取る
・「心の師」の言葉で教員免許取得を決意

 高校野球100年の今年、指導者歴50年の男が最後の戦いに挑んでいる。

 高校野球界屈指の常勝チーム・横浜高校。その監督を務める渡辺元智がこの夏限りの監督退任を表明したのが今年5月。あれから2カ月が経ち、神奈川大会が遂に開幕した。名将が有終の美を飾ることができるのかどうかは、この夏の大きな焦点になっている。

 今春までの甲子園通算成績は51勝22敗(春:23勝12敗、夏:28勝10敗)で歴代3位タイ。春夏あわせて通算5度(春3回、夏2回)の優勝は、中村順司氏(元PL学園監督)の6回に次いで歴代2位。そして、70年代(1973年春)・80年代(1980年夏)・90年代(1998年春夏)・2000年代(2006年春)の4つの年代で優勝経験のある史上唯一の監督として、球史のその名を轟かせているのが渡辺元智という人物だ。


 毎年選手が入れ替わる高校野球において、複数回優勝するのはもちろん至難の技だ。にもかかわらず、渡辺はなぜ4つの年代で覇権を手にできたのか? その背景には、指導者として変化し続けた渡辺の50年史があった。常勝チームをつくるために常に変化を求めたその半生を振り返ってみたい。

自身もやんちゃだった監督就任以前


 指導者としての歴史を振り返る前に、指導者になるまでの経歴も見ていこう。渡辺は戦中の1944年生まれ。横浜高校に入学し、野球部では外野手として活躍したが甲子園出場はならなかった。同級生には後の名参謀・小倉清一郎(昨年夏で横浜高野球部コーチを引退)がいた。

 高校卒業後は神奈川大学に進学。野球部に所属したが右肩の故障もあって退部し、大学も中退してしまう。さらには大好きな野球を失った挫折から、酒とケンカに明け暮れる、自暴自棄な毎日を送っていたという。

 そんな渡辺に救いの手を差し伸べたのが、横浜高時代の恩師でもある笹尾晃平監督だった。笹尾監督から打診された渡辺は1965年春、20歳のときに母校野球部のコーチになり、指導者人生がスタート。そして3年後の1968年秋には早くも監督に就任した。

スパルタ式で栄冠を手にした20代


 「監督」という肩書きを手にしたといっても、酒とケンカの日々を過ごしてからわずか数年後のこと。それ故、当時の指導方法は有無を言わさぬスパルタ式で選手たちをしごきまくるスタイルだった。本人も自著においてそのことを認めている。

《高校野球の指導者になった当初の私には、理論もへったくれもあったものではなかった。ただひたすらスパルタ教育あるのみ。「何が何でもこいつらを連れて甲子園に行くんだ!」という人並み外れた思いを胸に、体力の限界まで選手たちをしごき上げていた》
(渡辺元智著『育成力』より)

 こんな逸話がある。上述したように、とにかくスパルタ式で選手をしごきたかった渡辺。だが、当時の横浜高校には照明施設がなく、夕方以降に練習ができなくなってしまうことが渡辺は大いに不満だった。そこで長時間の練習をするためだけに車を購入し、車のヘッドライトでグラウンドを照らすことにした。

 もっとも、通常真上から照らす照明設備と違って真横から飛び込んでくる光はただただ眩しく、選手たちからは大不評。ところが、この眩しさが思わぬ副作用をもたらすことになる。中途半端な腰の高さで打球を捕ろうとすると眩しいが、より低く姿勢で捕球すれば眩しくなかったのだ。このことで横浜の守備力は向上し、1973年センバツでの初出場初優勝の快挙に結びつくことになる。渡辺元智、29歳での栄光だった。

三足のわらじ生活を送った30代


 20代にして日本一の監督になった渡辺。だが、安定して力を発揮するまでには至らなかった。春夏連覇を期待された同年夏の大会は神奈川県大会を勝ち上がることすらできなかった。強豪ぞろいの神奈川県とはいえ、慢心があったのも明らかだった。

 世間からは「お前のせいで負けた」という批判の嵐。それに加えて、球場で渡辺に対する野次が飛び交うようになったのもこの頃だった。

「お前、事務員だろう。監督なんてやってないで、便所掃除でもしてろ!」

 大学を中退し、教員免許を持っていなかった渡辺の肩書きは「臨時体育助教諭」。体育の授業の手伝いと事務の仕事をしながら野球部の監督を務めていた。このことが、渡辺にとっては大きな引け目でもあった。負け続ければすぐに監督もクビになるのではないか、という生活上の不安もプレッシャーとして重くのしかかっていた。

 人生においてもっとも精神的に追い込まれていたとき、渡辺を支えたのが「心の師」の存在だった。その師とは、横浜市にある光明寺の住職で、かつて横浜高校野球部の創設にも尽力した経歴を持つ白幡憲佑氏だ。

 白幡氏から靴の脱ぎ方に始まり、挨拶の仕方など普段のふるまい方を一から指導してもらった渡辺は、同時にこんなアドバイスももらった。

「教え子を成長させるには、まず指導者が人間的に成長していかなければならない」

 そこで渡辺は自身を成長させるべく、さらには念願の教員免許野取得のため、1976年に関東学院大学経済学部二部に入学。体育助教諭&事務員、野球部監督、そして大学生という三足のわらじ生活がスタートした。渡辺の人生においても最も忙しい日々を過ごすなか、1978年に入学してきたのが超問題児、愛甲猛だった。

(以下、次号に続く)


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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