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file#006 牧田和久(投手・西武)の場合

西武で奮闘するアンダースロー


 昨今の日本のプロ野球で大変貴重な存在となったアンダースロー。渡辺俊介(ロッテ)が引退してしまったら誰もいなくなってしまうのでは? と思われていた中、26歳でプロ入りしてきたのが牧田和久(西武)だ。1年目の2011年シーズン開幕後、鬼気迫るピッチングを繰り返すことでその存在は確固たるものになっていったが、この牧田については、私は今から8年前の04年からそのピッチングに魅了され、以降気に留めてきた。


初めて見たのは8年前の日米大学野球


 牧田を初めて見たのは、2004年に日本で開催された第33回日米大学選手権でのことである。平成国際大の2年生ながら、春の関甲新大学リーグでチーム7勝中6勝を挙げる活躍を見せた牧田は、県営大宮球場で行われる第4戦のみ参加の地域限定選手として大学日本代表に選ばれていた。春の活躍前に「平成国際大のアンダースロー、結構いいっすよ」という話は聞いていたが、アマチュア野球におけるアンダースローというのは、実際に見ると沈み込みの甘い“なんちゃってアンダースロー”であったり、球威や制球が極端になかったりして完成度が低い場合が多く、正直、あまり期待はしていなかった。
 ところが、このたった1度しかない貴重なチャンスに先発した牧田は、将来のメジャー候補生であるアメリカ代表の攻撃陣を相手にバットを4、5本へし折る快投を演じたのだ。そのフォームも、地面スレスレに深く沈み込む本物の“サブマリン”である。野球大国・アメリカをしても、さすがにこれほど深く潜る投手はいないのだろう。相手打者はみなそのフォームに驚きのリアクションを隠さず、バットがバキバキ折れる現象が不思議でならないという表情でベンチに引き返していく様が強烈に印象に残った。
「すげー! こんなアンダースローがいたのかー!」
 私はすっかり牧田のピッチングに魅了された。
 ただ、その一方で気になる点もあった。バットの芯を外したときの威力はものすごい反面、ひとたび芯でとらえられた打球はまさにピンポン玉のように飛んでいく。この試合でも二回り目になってそういう傾向が見え始め、結局、5回途中で交代。ボールを速く、重く見せてはいるが、本質的には軽く、その日の試合の中で打者に慣れられるととらえられてしまう。プロ入りした今でも時折見せる一面がこの試合でも見え隠れした。
 とはいえ、やはりあの「バット折りショー」は痛快で、多くの観客がエキサイトしたのは間違いない。私にとっても、牧田のインパクトは鮮烈に残ったピッチングであった。

06年に平成国際大野球場で見る


 しかし、その後は牧田のピッチングをしばらく見られない年月が続いた。なにしろ、関甲新大学リーグは群馬、栃木、山梨、長野など北関東や甲信越の地域を中心に行われているリーグである。平成国際大は埼玉県だが、都心部のさいたま市からはだいぶ北方となる加須市に位置しており、ブラッと行けるような距離ではなかったのだ。さらに、このリーグは全国大会の常連となっている上武大を筆頭に、多数のプロ選手を輩出している白鴎大、あるいは常磐大といったチームによる優勝争いが激しい。平成国際大もその一角に加わってはいたものの、全国レベルの大会に出場することは困難を極めていた。
 そんな中、唯一牧田を見ることができたのは、06年3月のこと。同大学の3年生・川端典義(Honda鈴鹿/11年に野球部退部)という左打ちの三拍子揃った外野手が『野球小僧 世界野球選手名鑑』の大学生選手名鑑に掲載されることになり、手持ちの写真がなかったため、大阪産業大とのオープン戦が行われる平成国際大の専用球場に撮影に行くチャンスに恵まれたのだ。大阪産業大には当時注目されていた内田好治(元ソフトバンク)もいて、もちろん、彼らの写真を撮影することが一番の仕事ではあったが、私は現地に着いたときから牧田がいつ投げるか気が気でならなかった。だから、リリーフでわずかなイニングながら登板したときには、それだけで「来た甲斐があった」と思ったほどである。このときも、深く沈むアンダースローは相変わらず。ポンポン投げるテンポの良さや、淡々としたマウンドさばきも変わらない。ただ、この春から4年生ということで、終始堂々としていて、貫禄が出てきたように見えたのが印象的だった。


07年から社会人の名門・日本通運へ


 結局、大学時代の牧田を見たのはこれきりとなり、牧田は07年から社会人の名門・日本通運に進んだ。日本通運でもすぐに主力となり、都市対抗にも出場。私はタイミングが合わず直接見ることはできなかったが、TV中継などを通してその姿のチェックを続けた。相変わらず思い切って突いてくるストレートには威力がある。テンポもいい。さらに社会人になって、細かい制球や緩急の技術がかなり向上したようだった。これはプロもあるのでは? と個人的には毎年思ったものだが、なかなか実現されず、しばらくすると牧田の名前も聞かなくなってしまった。実はこのとき、牧田は試合中のバント処理で右ヒザの前十字靭帯断裂。長期に渡り戦線を離脱していたのだ。
 牧田の名前がドラフト候補として再び挙がったのは、10年の夏のこと。右ヒザ前十字靭帯の再建術手術と、その後の懸命なリハビリを経て実戦復帰を果たしたピッチングを見て、年齢的にもギリギリ間に合うと判断したスカウトが結構いるという情報があるライターから入り、『野球小僧』のドラフト直前号にインタビュー記事が掲載されるに至った。ちなみに、私はそのページの編集担当になったのだが、仕事が山積みで泣く泣く取材同行を断念するという悔しい思いをしている。


 それはともかく、10年秋のドラフトで牧田はその流れに乗る形で西武から2位指名を受けて念願のプロ入りを果たした。まだ、記憶に新しいと思うが、このときは早稲田大・斎藤佑樹(現日本ハム)のフィーバーに代表される大学生選手大豊作の年となり、西武にも早稲田大から大石達也が鳴り物入りで入団した。当然のことながら、注目は6球団が競合したドラフト1位投手の大石に集まった。
 私は大石が注目されること自体は肯定しつつも、過去に見てきた経緯から「牧田だって1年目から十分1軍でやれるはず。うまく行けばローテに定着できる」と思っていたため、実はこのとき、ほんの些細なことながら編集者の“強権”を執行している。
 当時、私はシーズンの開幕前に刊行する『野球小僧 世界野球選手名鑑』の編集を主に担当していたのだが、11年版の巻頭カラーで紹介する新人王候補紹介の企画ページを制作する際、本来はセ・パ両リーグに新人王予想の本命、対抗を各1名ずつにする予定であったところを、パ・リーグだけは〈本命=大石、対抗=斎藤、牧田〉と強引に2名にして牧田を対抗にしておいたのだ。ちょっとした意地だが、やった本人としては正直ドキドキもので、後に彼が活躍してくれたことは別の意味においても感謝している。

WBC代表に入って“サブマリン”のアピールを望む


 11年シーズン開幕後の牧田の活躍については、特別多くを語ることはないだろう。西武投手陣の主軸となった牧田は、シーズン後半には手薄となったリリーフにもまわり、5勝7敗22セーブの成績で新人王を受賞。この活躍により、『野球小僧』でも11年の8月号において、なかなか実現するタイミングが得られなかった「アンダースロー特集」のゴーサインが出た。そこで行われた牧田本人のインタビュー取材に今度こそ編集担当として同席できたのは、私にとって悲願達成の時であった。


 そして、2年目となる今シーズンも、牧田は変わらぬ好投を続けていた。プロではまだ2年目ではあるが、8年前のあの日米野球で快投を知る者にとっては「ここまで長かったなぁ」と思うし、社会人時代に故障からの復帰があと少し伸びていればプロ入りすら怪しかったと考えると、今の姿を見られるのが本当に嬉しく思う。
 しかし、ここまで来ると欲深くなるもの。この深く沈む日本独自の“サブマリン”が世界を相手にどのくらい通用するのかぜひ見てみたい。そのためにも、牧田が来年3月に開催されるWBC日本代表に選ばれることを願ってやまない。

文=キビタキビオ/野球のプレーをストップウオッチで測る記事を野球雑誌にて連載つつ編集担当としても活躍。2012年4月からはフリーランスに。現在は『野球太郎』(10月5日創刊)を軸足に活躍中。

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