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現役の頃から揺らいだことはない「質より量」(第二回)

■18歳、単身で乗り込んだ広島

 今回から、いよいよ本格的に僕が広島でプレーしていた頃の話をしようか。

 今年2月に『赤き哲学』(発売:KKベストセラーズ/発行:サンフィールド)という本を出して、いろいろな人から「この本には、広島カープ時代の愛が詰まっていますね!」と言われる……という話は前回したけど、僕は1974年の秋にドラフトで指名されて広島に行くまでは東京の清瀬市に住んでいたから、広島にはまったく縁がなかった。

 高校を出たての18歳の球児が、単身で未知の地・広島に乗り込むことになるんだからさ。

 いきなりの広島で、戸惑いはなかったかって?

 そりゃ、あったさ。
 まず、言葉が広島弁だから、何を言っているのかわからない。「ワレ、カバチ言いよる?」と言われても、「ハイ!」って返してしまったりしてね。

 ああ、「カバチ=文句」ね。だから、「お前、なんか文句あるの?」って意味なのにね。

 他にも「自分」という単語の使い方が違う、というのがあった。
 関東では「私は……」という意味合いで「自分は……」って言うじゃない? でも、広島も含めて西の方では「自分」って「お前」っていう意味だから、人に呼ばれたときに「自分ですか?」って返事をすると変な顔をされたよ。

 まあ、何年かいれば慣れてくるし、言葉も自然と移ってくるけどね。

 それに、当時の広島は、今よりもすごく遠い場所という印象だったから、寂しかったよ。広島には友達も知り合いもいなかったしね。チームで関東出身だった人は、僕のことを可愛がってくれた(木下)富雄さんが埼玉だったくらい。他にはほとんどいなかったんじゃないかな?

 でも、それは良かったと思う。僕が広島に来たのは、野球をするためだったから。

 もっとも、仮に寂しくなかったとしても野球に集中できたさ。だって、給料が安かったもん(笑)。

 最初の年(1975年)は、実質、月3万円くらいしか手元に入ってこなかった。年俸が120万円だから月10万円。そこから、寮費や用具費、保険とかで引かれるからね。

 大体、商売道具の手袋とかバットすら買う金が足りなくて、先輩からバットもらったりしていたよ。そういうことを通じて、自分に合ったバットの形とかを覚えたんだけどね。

 そんな状況だったから、遊びに行ったとしてもタクシー代すら払えない。未成年だったから酒も飲まなかったし、パチンコや麻雀もしなかった。

 オレが遊び人だって!? それはもっと後の話だよ。

 麻雀は行っても後ろで見ているだけ。酒についても、現役のときは早くから膝を痛めていたために控えていたから、たしなむ程度だったね。

 とはいえ、レギュラーに定着してからは、それなりに遊んでいたので、当時の僕を知る読者の皆さんが抱いているイメージに誤解はないと思う(笑)。でも、最初の頃は全然そんなことはなかったよ。



■「質より量」の毎日

 ということで、入団当初の僕は来る日も来る日も練習に明け暮れた。金はなかったけど、幸いにも練習場はいつも誰もいなかったから、好きなだけ練習することができた。

 ピッチングマシンは当時からあって、カゴにボールを入れておくと自動的に投げてくれたから、休みのときもずっと一人で練習していたよ。

 「貧乏ヒマなし」だったけど、それがすべてプラスになったよね。今でも本当に良かったと思ってる。

 練習ばかりしていて、変なヤツだと思われた? そんなことは無かったよ。そもそもみんな2軍で、金が無いんだから、誘いあってどこかに行くだけの余裕なんてあるわけがない。

 よく、「毎日毎日練習ばかりしていて、時には体調が悪かったときもあったんじゃない? 休もうと思った日はなかったの?」と言われることがあるけど、2軍の時は休みたいとは思ったことすらなかった。

 そんなに弱い体じゃないしね。若い頃はみんなそういうものじゃないのかな? それが普通という感じで僕は育ったよ。

■結果を出しているなら「量より質」でいい、でも……

 当時は「違和感がある」なんて言い方は存在しなかった。

 これも『赤き哲学』に書いてあるけど、コーチに「(筋肉が)張ってます」と言うと「じゃあ、はがせ(張る=貼るにかけて)」、「(状態の悪い体の箇所を指して)ここがおかしいんです」と言えば「じゃあ、笑え(おかしい=面白いにかけて)」って返ってくるんだもん。何を言っても相手にされないから、「じゃ、練習やるか!」となる。そういう時代だった。

 でも、多少無理矢理だったとしても、練習ができてしまっていたということは、耐えられる範囲の痛みだったということ。

 要するに、子どもが転んだときと一緒なんだよ。
 子どもが転ぶと、誰かが起こしてくれるまで泣いているじゃない? ところが、親が放っておいて、どんどん先に歩いて行ってしまうと、起き上がって必死に追いかける。それと一緒。手をかけ過ぎるのも良くない。

 その意味では、今のほうが選手を育てるのは難しいと感じることはあるね。体のどこかがちょっとおかしいと大事をとって無理させないようにするし、給料もそこそこもらえるし。パソコンやスマホで練習方法の情報も色々と入手できるから、「量より質」という考え方の人も多いから。

 いや、もちろん、それで1軍で活躍できるのならいいんだよ。結果を出しているなら、しんどい思いをする必要なんて無い。

 でも、それができない下手な選手は、たくさん練習するしかないよね? それだけのことなんだよ。

 ただ、下手な選手は課題がザックリしているから練習すれば上達しやすいし、ひとつクリアできると、それを喜びにして、さらにやる気につなげることができる。僕はまさにそういうタイプの選手だったから、ずっと練習し続けることができたのかもしれんね。

 でもさ。世の中「質より量」で身につくモノって、結構たくさんあるよ。「職人」と言われる人はみんなそうでしょう? たとえば、料理人が包丁を自在に扱う技術を身につけるためには、絶対に量をこなす中でコツをつかんでいると思う。

 もちろん、「量より質」という考え方も解るんだけどね。間違ったことをずっとやっていたら、コツを得るまでに時間はかかってしまうから。でも、「量より質」と言えるのは、上手い選手の考え方だよ。下手なヤツは量をこなすことで向上していく、という考えは、現役の頃からコーチを経た今も、僕の中で揺らいだことはない。


 野球って、数字がすべてのシンプルな世界だから、ラクな面があるよね。そこに人付き合いとか感情が入る余地はない。ある意味、普通の社会人より易しいかもしれないね。

 ただ、そういう考えでやっていると、数字が出せなくなったときに放っぽり投げられてしまうけどね。それは覚悟しておけばいいんじゃないかな?

 少なくとも、当時のカープはそういう雰囲気のチームだった。それは、若かりし僕にとって、すごくいい環境だったと思っている。おかげで、誰よりも「質より量」を実践することができたのだから。


高橋 慶彦(たかはし・よしひこ)
1957年生まれ、北海道芦別市出身。4歳の時にスキーを指導していた父の異動により、東京に移り住む。城西高に進学し、3年夏に甲子園出場。これがきっかけで、その秋のドラフト3位で広島に指名され、入団。4年目の1978年に110試合出場し、ポジションを勝ち取り、「赤ヘル黄金期」の1番打者として大活躍する。1979年に達成した33試合連続安打は今もまだ破られることがない日本記録。村上龍が書いた小説『走れ!!タカハシ』のモデルとなったり、発売したレコードは野球選手としては異例の売上を記録したり、全国的な人気もあった。1989年オフにトレードでロッテへ、翌1990年オフに阪神へトレードで移籍し、1992年に引退。その後、ダイエーやロッテでコーチ、2軍監督を務め、村松有人、今江敏晃などを育てた。現在はテレビ新広島で解説者を務めている。

構成=キビタキビオ/1971年生まれ、東京都出身。野球のあらゆる数値を測りまくる「炎のストップウオッチャー」として活動中。元『野球小増』編集部員で取材経験も豊富。8月には『ザ・データマン〜スポーツの真実は数字にあり〜』(NHK-BS)に出演するなど、活躍の場を広げている。ツイッター/@kibitakibio

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