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抱きしめられたい! 高校野球ファンに最も愛された男・尾藤公との延長戦はまだ続いている


箕島高校 尾藤公元監督


間に合わなかったもの……


 1971(昭和46)年生まれの私にとってぎりぎり間に合わなかったもの。

 松山商との決勝戦を引き分け再試合で破れた三沢の太田幸司=1971年夏、怪物・江川卓(作新学院)=1973年春夏、知略と精神力で江川を倒した迫田穆成監督率いる“広商野球”の広島商=1973年春、同じく江川に雨中の延長戦で競り勝った斉藤一之監督率いる“黒潮打線”の銚子商=1973年夏、炭坑町の公立校・三池工で奇跡の夏制覇を果たした後、息子・原辰徳との親子鷹でならした原貢監督の東海大相模=1974〜1976年、広島商を1対0の最少スコアで破った栽弘義監督の豊見城=1977年夏。

 あと数年早く生まれていれば……。

 一番古い高校野球の記憶は1976年夏の決勝、桜美林がサヨナラでPL学園を下して初優勝を飾った一戦だ。私は岡山県営球場から歩いて数分の小さな県営住宅に住んでいた。夏も盛りを過ぎようとしていたある日、洗濯物を畳む母親の横で、異様な高揚をムンムンと伝えるテレビの画面からは「オービリン、オービリン」という呪文のようなフレーズが流れていた。それが高校野球との出会いだ。

 翌1977年の記憶はない。小学生になって初めての夏休とあって、他のことに熱中していたのだろうか。思い出せない……。本格的に甲子園にのめり込んだのは1978年、小学2年生の夏。地元・岡山東商がベスト4まで勝ち進み、“逆転のPL”と異名をとったPL学園が優勝した時のことだ。

小学2年生、箕島に間に合う


 1979年夏。私は間に合った。尾藤公監督の箕島がカクテル光線のなか甲子園でみせた“延長18回”に間に合った。私は毎夏、熊本県葦北郡田浦にあった祖母の家に帰省していた。海と山に挟まれた小さな田舎町での日々が夏のエンターテインメントだった(運動神経抜群だった父は、田浦初の巨人軍選手になるかと噂された少年野球選手だったが、その座には立岡宗一郎が座ることとなる。熊本は、打撃の神様・川上哲治の出身地のせいか巨人ファンが多い)。

 祖母は小さな商店を営んでおり、何かあるとオロナミンCを飲ませてくれた。夕食が終わると、店の雑誌コーナーで好きなだけ少年漫画誌を呼んだ。この夏、隣町の盆祭でラムネ早飲み大会があることを知った私は、毎日2本のラムネを祖母にもらい、早飲みの特訓をしながらその時を待っていた、のだが……。

 ラムネ早飲み大会が迫るなか、箕島と星稜が戦っていた。試合が終わらない、目が釘付けになって離せない。やがて甲子園球場にともる照明。カクテル光線に照らされる内野の黒土、汗で黒光りする選手の腕。幼い私にとってファンタジックな異空間が現れる。心臓が口から飛び出るくらいドキドキしていた。この瞬間、完全に高校野球のトリコとなった。甲子園の照明が大好きになった。

「そろそろ祭りたい。出掛けるばい」

 祖母の声が聞こえる。「いや、祭りはいい」。私はラムネの早飲みよりも大事なことが目の前で起こっていることを理解していた。「それを作れば、彼はやってくる」(『フィールド・オブ・ドリームス』)が現れたことを理解していた。これは選ばれし神々の戯れ。我々はただ見守るのみ、と。

 箕島は延長12回裏2アウトからホームランで追いつく。16回裏には一塁ファウルフライで万事休すと思われた瞬間、星稜の一塁手が転倒落球。再びホームランで追いつく。18裏、永遠に続いて欲しい戯れは劇的なサヨナラゲームで幕を閉じた。4対3で箕島の勝利。試合後の通路で18回を投げぬいた星稜のエース・堅田外司昭は球審から白球を手渡された。

 球審は言った「球場をもう一度みておきない」

 この一戦は「神様が創った試合」と伝えられている。名将の系譜という意味では、ここから箕島・尾藤公監督と星稜・山下智茂監督との間に固い師弟関係が始まることとなった。

下を向いたら徹底的にいかれた


 尾藤公。和歌山県有田市、1942年生まれ。2011年没。1966年に箕島の監督に就任し、早くも1970年にエース・島本講平を擁してセンバツ優勝。1977年もセンバツを制し、1979年には石井毅と嶋田宗彦の強力バッテリーで、当時史上3校目となる春夏連覇を達成。通算成績は35勝10敗(勝ち星は歴代10位)。「強気一点張り」と尾藤監督が言う気性の激しい漁師町からやってきた公立校は甲子園の人気チームとなった。

 尾藤監督はエピソードに事欠かない。チームの不振に起こったOBからの揶揄に自らの信任投票を選手たちにさせるも、不信任が1票。潔く辞任してボウリング場で2年程働く(不信任を投じた選手にはバッティングを指導)。スパルタへの疑問の末に選手の自主性を尊重する“のびのび野球”に行き着き、高校野球の指導法の流れを変える。どんな展開になってもベンチにドンと構え、選手を大きな笑顔で迎える様は「尾藤スマイル」と呼ばれ、他校の監督の顔にも笑顔が広がっていく。

 1977年春にはエラーして戻ってきた選手に「大丈夫や。お前のミスは計算に入れとる」

 その年の夏、星稜戦では延長12回裏に「ホームランを打ってきます」と言いバッターボックスに向かう嶋田に「よし!」

 でっかい男だった。また、現在、箕島野球部監督の座を継いだ長男の強氏によると、練習中は「技術的なことはほとんど何もなかった。ただ、態度に出すとか下を向くとか、そういうところが見えたら徹底的にいかれた」という。

「野球は監督がやるものではなく選手がやるもの」

「高校野球の監督は選手と一緒に汗を流せる人じゃないと務まらない」

「俺は君らひとりひとりと恋愛をしている。監督じゃない。恋人なんだ。だから、君たちのすべてを知りたいんだ」
(『高校野球「名監督」列伝/ベースボールマガジン社』)

熱い。燃えてくる。尾藤監督にまつわる書籍や記事はあまたあるが、少し紐解くだけでグッとくる言葉がボロボロと出てくる。グラウンドで負けん気をはつらつと発揮する箕島野球は“野武士野球”とも呼ばれ、無類の勝負強さを発揮した。

人生で貫かねばならぬこと


 高校野球は光と影のコントラストが濃い人生の縮図だ。18歳の夏、一度きりの刹那を燃やす球児の夏に、大人の事情が複雑に絡み合う。それは社会の縮図といってもいい。さわやか、汗と涙と青春、教育者……。そんなきれいごとが通用しないケースも多い。「良心」など口幅ったくて言えないこともある。

 しかし、尾藤監督は「高校野球の良心」だった。名言できる。高校野球が終わってからの方が人生は長い。優勝してもプロになれる選手はめったにいない。高校野球で終わってほしくない。卒業しても野球を好きでいて欲しい……。1980年代半ばを過ぎ。バブル時代の喧噪のなか、そんな尾藤監督は、箕島野球は、徐々に甲子園からフェードアウトしていった。スピリットと無償の愛を残して。

 高校野球からもっとも愛された一本気な頑固者、尾藤公。ニュースの片隅に箕島の名を見つけると、どうにも鼻の奥がツーンとする。私は尾藤監督の箕島野球にぎりぎり間に合った人間として貫かねばならぬものがあることを知っている。ひたむきであること。臆せず、ひるまず、みくびらずに戦うこと。見返りのない愛で人生に臨むこと……。

 2013年夏。息子の尾藤強監督率いる箕島が29年ぶりに甲子園の土を踏んだ。

「高校野球ファンの皆様、お待たせしました。あのユニフォームが甲子園に戻ってきます。箕島高校、入場です」そんな実況に泣けた。Facebookでは幾人かが「箕島!」と叫んでいた。いつの日か、人生という灼熱のグラウンドで「よくやった!」と尾藤監督に抱きしめられたい。延長戦はまだ続いている。


■著者プロフィール
山本貴政(やまもと・たかまさ)
1972年3月2日生まれ。ヤマモトカウンシル代表。音楽、出版、サブカルチャー、野球関連の執筆・編集を手掛けている。また音楽レーベル「Coa Records」のA&Rとしても60タイトルほど制作。最近編集した書籍は『デザインの手本』(グラフィック社)、『洋楽日本盤のレコードデザイン』(グラフィック社)、『高校野球100年を読む』(ポプラ社)、『爆笑! 感動! スポーツの伝説超百科』(ポプラ社)など。編集・執筆した書籍・フリーペーパーは『Music Jacket Stories』(印刷学会出版部)、『Shibuya CLUB QUATTRO 25th Anniversary』(パルコ)など。

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