週刊野球太郎
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「ヤンキースタジアムが世界一なら、君は東洋一のものを造るんだ!」〜甲子園九十年物語〈1924−1935〉

 これまで数多のドラマを紡いできた阪神甲子園球場。1924(大正13)年8月に誕生してから、今年で90周年のメモリアルイヤーを迎える。

 そもそも、なぜ「甲子園」という名称なのかご存知だろうか。「甲乙丙…」ではじまる“十干”と、「子丑寅…」ではじまる“十二支”の組み合わせで決まる干支。竣工した1924(大正13)年の干支はその最初の「甲子(きのえね)」にあたる60年に一度の縁起のいい年であることから「甲子園」と命名されたのだ。

 そこで『週刊野球太郎』では、名前の由来にちなんで「12年周期」で甲子園の歴史を掘り下げ、球場史にその名を刻んできた野球人を計90人選出。「Man of the period」として毎回表彰していく。第1回は1924年〜1935年の12年間について、13人を選出していきたい。



 まずは、その13人を紹介しつつ、この12年の歴史を一気に振り返ってみよう。

◎13人の偉人で振り返る
〜甲子園九十年物語〈1924−1935〉


<わずか4カ月強で完成した巨大球場>

 甲子園球場ができるまで、夏の甲子園大会(全国高等学校野球選手権大会)の前身、全国中等学校優勝野球大会は鳴尾運動場で開催されていた。しかし、1923(大正12)年の第 9 回大会準決勝で詰めかけた観衆が球場から溢れ出し、試合が中断するというハプニングが起きてしまう。それほどまでの盛り上がりを見せていた大会を続けるためには、巨大球場の建設が必要不可欠だった。

 そこで、当時、阪神電鉄の専務であった三崎省三が製作指揮を執り、若き技術者・野田誠三が設計を担当して1924(大正 13)年 3 月 1 日、甲子園球場建設工事がスタートした。

 夏の大会までわずか4カ月強、敷地面積12000 坪、収容人数約 6 万人という巨大スタジアムの建設に、当初はどの業者も「梅雨もあるためこんな短い工期では責任がもてない」と尻込みする中、果敢にも手を挙げたのは大林組。牛3頭にローラーをひかせ、ほぼ昼夜兼行で進められた工事は幸い天候にも恵まれ、実質わずか4カ月半で完成させてしまう。

 そして8 月 1 日、竣工式と記念の学童運動会が開催され、8月13日には第10回全国中等学校優勝野球大会が開幕したのだ。

<熱狂・甲子園>

 こうして歴史がはじまった甲子園球場。当初は関係者の間でも「6万人のスタンドがすべて埋まるには10年はかかるのではないか?」と心配する声が大きかったが、大会4日目、当時「東西の横綱」といわれていた兵庫の第一神港商(現市立神港高)と、東京の早稲田実業が激突するという好カードに、スタンドは6万人の超満員。この試合では“和製ベーブ”と呼ばれていた神港の好打者・山下実が甲子園球場初のホームランを放ち、その名を歴史に刻んだ。

 瞬く間に国民の衆目を集める存在となった甲子園大会。とりわけすごかったのが1933(昭和8)年8月19日の大会準決勝、明石中vs中京商に尽きるだろう。この試合、明石中は本来のエースである楠本保が体調不良で投げられなかったが、代わりに先発した中田武雄が力投。中京商・吉田正男の投げ合いとなり、延長25回の末、中京商のサヨナラ勝ちで決着がつくという壮絶な試合となった。

 このような劇的な試合が数多く生まれたことで、甲子園の盛り上がりはますます勢いを増すことになる。

<文化人と甲子園>

 甲子園の歴史を支えたのは選手たちばかりではない。甲子園の熱狂を伝えた報道関係者もまた重要な役割を担っている。

 1926(大正15)年から毎年甲子園に姿を見せ、朝日新聞の嘱託記者として批評の筆をとったのが、早稲田大野球部の監督も務めたことがある飛田穂洲だ。飛田は後に「高校野球の父」として表彰されている。

 1927(昭和 2)年、第 13 回大会から初めてラジオの実況中継が開始された。この実況を担当したのが、元球児の魚谷忠アナウンサー。上司から「野球経験者は魚谷だけだから、1人で全部やれ」と命令され、8 日間に渡る全試合を1人で実況中継したという。


 1929(昭和4)年、内野席と外野席の間に特設スタンドが増設。ここを「アルプススタンド」と命名したのが当時朝日新聞の記者だった、後の漫画家(そして岡本太郎の父として有名な)岡本一平といわれている。

<藤村富美男と大阪タイガース>

 次々とスターが生まれる甲子園大会において、最初のスーパースターといえば呉港中の投打の柱、藤村富美男の名をあげる人が多い。大正中時代の1932(昭和7)年、1933(昭和8)年の大会では明石中の楠本保、京都商の沢村栄治、中京商の吉田正男ら中等野球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ、敗れ去った藤村。しかし、校名が呉港中に変わった1934(昭和9)年の夏の大会でついに全国制覇を達成する。その活躍ぶりから人々は藤村を“甲子園の申し子”と呼んだ。

 この1934年秋には日米野球のため、アメリカのスーパースター、ベーブ・ルースらが来日し、甲子園球場でも試合を行った。このときの全日本チームが母体となって、1934年冬に大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)が誕生。そして翌1935年12月10日、ジャイアンツに対抗する形で甲子園球場を本拠地とするプロ野球団・大阪タイガースが誕生する。球団創設メンバーには上述した“甲子園の申し子”藤村富美男も加わった。“初代・ミスタータイガース”と呼ばれるようになるのはもう少し後の話である。

【pick up!】

三崎省三、野田誠三、大林組、山下実、楠本保、中田武雄、吉田正男、飛田穂洲、魚谷忠、岡本一平、藤村富美男、沢村栄治、ベーブ・ルース


 以上、13名の偉人の中から、さらに掘り下げたい人物を3人紹介したい。

◎Man of the period 〈1924−1935〉
 Best 3/ベーブ・ルース


 甲子園球場の「巨大さ」を示すエピソードとして有名なのが、ベーブ・ルースが球場を見て発した「Too large(でかすぎる)」という言葉だろう。ベーブ・ルースと甲子園球場には他にも縁があり、かつて選抜大会では選手の士気を高めるため、ホームランを打った打者に「ベーブ・ルース杯」が贈られた。そしていまでも球場を見守るようにベーブ・ルースのレリーフが飾られている。

◎Man of the period 〈1924−1935〉
 Best 2/藤村富美男


 1934年夏、悲願の優勝を遂げた藤村富美男。しかし、この優勝には後日談がある。甲子園から地元広島に帰ると、駅前は優勝を喜ぶ人で黒山の人だかり。そんな中、藤村が優勝旗をお披露目しようとした瞬間、旗の柄の部分が何かにぶつかりポキリと折れてしまう。慌てて取り替えたのはいうまでもない。

◎Man of the period 〈1924−1935〉
 Best1/三崎省三


甲子園球場建設の製作総指揮を執った阪神電鉄の三崎省三。アメリカ留学経験のある彼の発想と情熱がなければ、甲子園は今とは全く違うものになっていたはずだ。スタンフォード大学で電気工学を専攻していた三崎だったが、学業ではひけをとらなくてもベースボールやフットボールではアメリカ人にまるで歯が立たなかった。

「東洋人は西洋人に比べて体力や運動能力が劣る。いろんな施設を造って日本人の体力向上を図らねば」。この時の決意があったからこそ、甲子園建設という重責を担うことができたのだ。

 三崎は京都大学を卒業して1年にも満たない若き技師・野田誠三に設計を指示。「ヤンキースタジアムが世界一なら、君は東洋一のものを造るんだ!」という野田へのメッセージは見事に結実することになる。



■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。ツイッター/@oguman1977

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