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【高校野球レジェンド監督】神々の使いの戯れ〜真夏の夜のカクテル光線 星稜・山下智茂と箕島・尾藤公


オロナミンCで迎えた夏の甲子園


 1979年8月16日。夏の空が暮れていく。小学3年生だった私には夜から出かけなければならない用があった。

 この夏、私は父親の実家に帰省していた。祖母が暮らすその家は熊本県葦北郡田浦という有明海をのぞむ小さな町にあった。海を挟んで見えるのは天草、島原地方。後ろには夏みかんの木が茂る山々。そんなのんびりした土地だ。

 祖母は今でいうコンビニのような小さな商店を営んでいた。私は自然を走り回り、合間にオロナミンCを飲みながらお茶の間で高校野球観戦。夕飯を終えるとお店の雑誌コーナーで『週刊少年チャンピオン』などを好きなだけ読んだ。お店に住めるなんて。祖母の家は小学生の幼い願望を叶えてくれる場所だった。

 それにしても毎年、祖母は帰省した私の顔をみるとまず「よう来たばい。オロナミンば飲むたい」と言っていた。何故だろう? おかげで、自動販売機のオロナミンCが目に入ると買い求め、ひと息に飲み干すクセがついた。

 私は、前年の夏から甲子園にどっぷりとはまっていた。「逆転のPL」のPL学園が制したその大会では、地元・岡山東商がセンバツ準優校の福井商、栽弘義監督の豊見城をサヨナラゲームで下してベスト4に進出。好ゲームの連続にトリコになったわけだ。岡山東商の小柄なエース・薮井憲志のアンダースローが醸す美的な情緒もお気に入りだった。

 このようにして私なりに臨んだのが1979年、60回目の夏の甲子園だったのだ。この大会には春夏連破を狙う箕島、子ども心にもやんちゃな空気を察知した牛島和彦〜香川伸行バッテリーの浪商、「さわやかイレブン」の伝説校・池田など、キャラの濃い高校が揃っていた。期待通り。予感的中。人気の子ども番組よりも、甲子園の方が劇的だった。少年の胸を高ぶらせるビートが鳴っていた。

ラムネ早飲み競争か「箕島対星稜」か


 8月16日。夕方(日刊スポーツを調べてみると4時6分試合開始とある)。大会9日目の第4試合が始まった。箕島対星稜の3回戦だ。しかし、テレビの前に座る私には、勝負の行方を見届けられないことがわかっていた。

 何故ならこの夜、私には、夏祭りのラムネ早飲み競争という大切な勝負があったからだ。そのために毎晩、ラムネ2本を手に特訓を積んできた。「絶対に勝つ!」。私のために、祖母はお店のラムネを飲ませてくれた。ビンのくぼみにビー玉をひっかける。コツは掴んでいた。あとは試合を待つのみ。勝負気配は満点。私は充実していた。

 試合は横綱・箕島を相手に星稜が一歩も引かず、緊迫の度合いを増していく。テンションいっぱいに「緊張の糸」が張りつめる試合を目の前に、なかなかテレビから離れるタイミングが掴めない。このまま延長戦になりそうだ。「そろそろ出掛けるばい」。祖母の声がする。まずい。ラムネの時間が迫っている……。

 と、その時、甲子園に照明が灯った。黄色がかった光がグラウンドを照らした。「あっ」。甲子園球場が表情を変えた。土と埃にまみれた球児の顔が、腕が光っている。突如、魔法がかかった景色が現れた。鮮やかだった。何だろう、これは。おぼろげにわかったのは「これは選ばれし者たちの舞台」ということだった。見届けなければならない。私はお茶の間でラムネを飲むことにした。


神々の使いが戯れた祝祭の場


 野球映画『フィールド・オブ・ドリームス』には「それを作れば、彼はやってくる」という有名なフレーズがある。ここでいう“それ”(トウモロコシ畑に切り開いた野球場)とは祝祭の場であり、“彼” (伝説の選手たち)とは神技を司る神々の使いである。我々は神々の使いが降り立つ場を作り、その戯れを眺めていれば浄化される、ということだ。元来、スポーツを含めた芸事を担う者は日常の外にいる神々の使い=異形の者として、あの世とこの世を繋ぐ祭(ハレの日)に欠かせない存在として、尊敬されてきた。その一方で、恐れられてきた。そんな歴史がある。

 その夜、甲子園は祝祭の場と化した。照明という装置を合図に『フィールド・オブ・ドリームス』言うところの“それ”が姿を現したのだ。もちろんグラウンドにいるのは監督と、高校球児である。神々の使いとは大げさだ。しかし彼らは確かに、ゲガレをもって踏み入ってはいけない場所にいる「選ばれし者」に見えた。神聖なるもの。それは、子どもの私にも皮膚感覚で伝わってきた。

 延長12回裏。箕島が2アウトからホームランで追いつく。延長16回裏。再びリードされた箕島は、一塁ファウルフフライで万事休す。しかし、ファーストが落球。命拾いした直後に、再びホームランで追いつく。

 口から心臓が飛び出そうな展開をしのぎ合う選手がベンチに戻る。その都度、私の目はいつしか選手を迎える監督にも向けられていく。箕島ベンチでは尾藤公監督が笑顔で選手を迎えている。星稜ベンチでは青年の山下智茂監督が険しい顔で戦局を睨んでいる。このおじさんたちは誰……。この試合で私は「高校野球監督」なる存在にも気がついた。

 ふたりとも今さら言うまでもない名監督だ。キャリアを積むうちに「甲子園に出るためのスパルタ特訓」に見切りをつけ、勝敗を超えた道を選んだ共通点がある。「甲子園に出てもプロになれる人間はわずか。プロで成功できるのはもっとわずか。ほとんどの者は野球を辞め、働き始める。ならば、高校野球を恨まず、健やかな人生を送ってほしい」。そんな思いが2人の心にあったのは想像に難くない。ライフ・ゴーズ・オン。高校野球は終わる、それでも人生は続くのだ。

祭り囃子がやみ、山下甲子園に笑顔が


 果てしない延長戦に没頭するうちに、もはや私にとって勝敗は意味をなくしていた。ただ、ずっと試合が続いていて欲しいと願っていた。延長20回でも、30回でも、この祝祭を眺めていたい。そう思っていた。

 延長18回、4対3。試合開始から3時間50分。箕島のサヨナラ勝ちで決着をみたこの試合は、主審が敗戦投手となった星稜・堅田外司昭投手に最後のボールを手渡して幕を閉じた。美しい余韻を残して祭り囃子はやんだ。

 このナイトゲームは、最高の野球が非日常的な祝祭の場であることを教えてくれた。祭りのあとの寂しさも教えてくれた(来年の祭りまで頑張ろう!)。そして高校野球監督に気づかせてくれた。

 「僕が東大生を出すから、君が甲子園球児を出してくれ」。そんな校長の言葉を意気に感じた若き日の山下監督は、シャツにもパンツにも茶碗にも天井にも「山下甲子園」と黒マジックで書きなぐったという。また、この箕島戦をビデオで見返し、選手を迎える尾藤監督に笑顔に「オレは小さい」と衝撃を受けた山下監督は、自宅玄関脇に170センチの姿見を置いて毎朝、笑顔の練習をするようになったという。素晴らしい。そんな損得や勝ち負けを超えた場所で心響かせる男たちの祝祭をもっともっとみたい(尾藤監督については、またあらためて……)。

文=山本貴政(やまもと・たかまさ)
1972年3月2日生まれ。ヤマモトカウンシル代表。音楽、出版、サブカルチャー、野球関連の執筆・編集を手掛けている。また音楽レーベル「Coa Records」のA&Rとしても60タイトルほど制作。最近編集した書籍は『デザインの手本』(グラフィック社)、『洋楽日本盤のレコードデザイン』(グラフィック社)、『高校野球100年を読む』(ポプラ社)、『爆笑! 感動! スポーツの伝説超百科』(ポプラ社)など。編集・執筆した書籍・フリーペーパーは『Music Jacket Stories』(印刷学会出版部)、『Shibuya CLUB QUATTRO 25th Anniversary』(パルコ)など。

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