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2003年の阪神タイガースと伊良部秀輝 〜悪童と呼ばれた豪腕が最後に求めたもの〜


 「悪童」「わがまま」「傲慢」……。度重なる球団との衝突、広岡達朗GMとの軋轢を経て、ロッテ時代の彼にはそんな評判が当たり前のようについて回った。

 ヤンキース時代にはオーナーから「彼は太ったヒキガエルだ」と糾弾された。

 現役引退してからも、バーで店員を殴って逮捕される(のちに不起訴処分)など、トラブルメーカーぶりは続いた。

 その人物こそ、稀代の豪腕投手、伊良部秀輝。「チームを救ったアウトロー」、最終回は球史に残る問題児について振り返りたい。

大沢啓二を袖にした高校時代の伊良部秀輝


 プロ野球の世界に入る以前から、伊良部秀輝はある意味でわがままであり、マイペースを貫く男だった。

 甲子園に2度出場し、プロ注目の選手だった尽誠学園高校(香川)時代、伊良部の元には各球団関係者が挨拶に訪れていた。なかでも熱心だったとされるのが、当時の日本ハム球団常務・大沢啓二だ。

 ある日の投球練習終了後、尽誠学園のグラウンドを訪ねた大沢。チームの監督はそんな大沢に気を利かせ、伊良部に再度、投球練習をするように指示を出した。

《「アンチャン、悪いね」 大沢の言葉に伊良部は軽く会釈すると、球を投げ始めた。本当に力を入れない、軽い投球だった。しばらくして伊良部は大沢の顔を見て「もういいですか?」と小さな声で言った。すでに練習は終わっている。どうして投げなければならないのだという気持ちだったのだ。
「よっしゃ、このピッチャー、五千万でもらった」 大沢は大声で笑い飛ばしたが、なめられたと腹の中は煮えくりかえっていた。そして、ファイターズは伊良部の指名を見送ることにした》(田崎健太著『球童〜伊良部秀輝伝〜』より)

 のちに大沢は日本ハムの監督として伊良部と対峙し、「幕張の浜で伊良部クラゲに刺された、イテテテ…」と言ったことから「伊良部クラゲ」の異名が生まれ、伊良部が広く認知されるキッカケとなった。浅からぬ因縁があった、ということだろう。

 プロも煙に巻いた尽誠学園時代、寮で同部屋だった後輩の佐伯貴弘(元横浜ほか)に、伊良部は2つの希望をよく口にしていたという。

 ひとつは、「メジャーリーグで投げたい」というもの。そしてもうひとつが、「プロ野球なら阪神にいきたい」というものだった。

 そんな意思とは関係なく、伊良部は1987年のドラフトでロッテから1位指名を受け、プロ野球の世界に身を投じた。

「ボールはコントロールできるけれど、メディアはコントロールできない」


 ロッテ入団後、伸び悩む時期が長かった伊良部。入団2年目にして当時球界最速となる158キロを計測したものの、その年は未勝利。誰もが認めるストレートがありながら、結果が伴わなかった。

 それでも、チームの先輩投手である牛島和彦の教えを乞うようになった1993年、遂に覚醒。以降、最多勝1回(1994年)、最多奪三振2回(1994、1995年)、最優秀防御率2回(1995、1996年)と毎年のように好成績をおさめ、パ・リーグを代表する投手へと登りつめた。だからこそ、伊良部の心の中にある思いが再燃したのだ。

《日本で最多勝、奪三振、防御率、個人タイトルは獲った。そやけどな、チャンピオンにはなれへん。ロッテにはどうせ優勝なんて無理やねんという雰囲気があるねん。ヤンキースは違うやろ。世界一のチームや。言うたら、日本一弱い球団から、世界一強いチームに行くんや。(中略)優勝チームの選手だけにもらえる、チャンピオンリングってあんねん。あれが欲しい。日本球界全部を敵に回しても、チャンピオンズリングを獲りに行くんや》(『球童』より)

 その言葉どおり、日本球界を敵に回して実現させた、ヤンキースへの入団。そして日本人初となるワールドシリーズ制覇。念願のチャンピオンズリングを2つも獲得し、伊良部の夢は成就した。

 だが、その代償として多くの敵をつくったのも事実。特に、メディアとの関係性は悪化する一方だった。

 メジャー移籍騒動の際には「アンタら凡人にミケランジェロの気持ちがわかるか? 俺はミケランジェロなんだよ」とマスコミに言い放ち、悪役ぶりに拍車がかかった。

 マスコミからどんな質問をされても「普通です」としかコメントしなかったメジャーリーグ時代。伊良部の「悪童」「わがまま」キャラはますます定着していった。

 後年、伊良部はこんな言葉を残している。

「野球ボールはコントロールできるけれど、メディアはコントロールできない」


「冗談言って、先輩をからかったりして日本で野球やりたいんだよね」


 多くの敵をつくってまで実現させたメジャーリーグへの道。だが、伊良部は2003年、再び日本球界へと戻って来た。

 ひとつの理由は、エコノミークラス症候群を患い、メジャーの過酷な移動環境に体がもたなくなってしまったこと。そしてもうひとつが、「冗談言って、先輩をからかったりして日本で野球やりたいんだよね」という思いだった。

 そんな伊良部に目をつけたのが、前年の2002年から阪神の監督を務めていた星野仙一だった。2002年オフ、悲願の優勝のため、外国人を含めて24人もの新戦力をチームに迎え入れた阪神。その中の目玉が広島からFAで移籍した金本知憲であり、日本ハムからトレードで獲得した下柳剛であり、そして伊良部だった。

 本来、閉鎖的で、外様選手には居心地が良くないとされる阪神。だがこの年はむしろ、外様選手こそがチームの主役であった。打者では前述した金本と、この年限りでユニフォームを脱ぐ広澤克実がチームをひとつにまとめた。そして投手陣では下柳の存在が伊良部にとっては大きかった。

 毎晩のように連れ立って街に繰り出した下柳と伊良部。カラオケでは「ぼくはずっと阪神ファンだったんですよ」と『六甲おろし』を大声で歌い、夜遅くまで、投球フォームや野球観について語り明かしたという。

 こうしてチームに溶け込むことができた伊良部。結果として13もの勝利を積み重ね、阪神の18年ぶりの優勝に大きく貢献したのだ。

 だが、この2004年の活躍が、野球人・伊良部にとって最後の輝きだった。翌年は登板数が3試合のみ。防御率13.11という数字で、オフに戦力外通告。その後、アメリカ独立リーグでの現役復帰や、高知ファイティングドッグスへの入団と、何度か球界復帰を試みた伊良部だったが、眩しいスポットライトが当たることはなかった。

 2011年7月27日、ロサンゼルス近郊の自宅で自殺。42歳という若さだった。


文=オグマナオト

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