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第17回 「(WBC以外の)国際大会で輝いた」選手名鑑

「Weeklyなんでも選手名鑑」は、これまで活躍してきた全てのプロ野球選手、アマチュア野球選手たちを、さまざまな切り口のテーマで分類し、テーマごとの名鑑をつくる企画です。

 毎週、各種記録やプレースタイル、記憶に残る活躍や、驚くべく逸話……などなど、さまざまな“くくり”で選手をピックアップしていきます。第17回のテーマは、「(WBC以外の)国際大会で輝いた」選手名鑑です。


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 全出場チームの戦力均衡を印象づける大会となっている第3回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)も順調に日程を消化。日本代表の過去2大会も決して楽な戦いではありませんでしたが、ここまで力量差の少ない相手との試合が続く緊張感はなかったのではないでしょうか。

 その様子から思い出されたのが、多くを挑む立場で戦っていた頃の国際大会のことです。まだプロが参加できず、アマチュア選手中心の日本代表が巨大な壁だったキューバや、アメリカ、チャイニーズ・タイペイ、韓国などと熱戦を繰り広げたあの時代――。負ければ終わりの緊張感の中で日の丸を付けて戦う選手たちには、NPBでは感じにくい“覚悟”を感じたものです。今回はそんな“WBC前夜”の国際大会で印象的な活躍を見せた選手で名鑑をつくります。



杉浦正則(日本)

 1991年から2000年まで社会人野球・日本生命で10年の間プレー。その間、バルセロナ、アトランタ、シドニーの3度の五輪と4度のインターコンチネンタル杯、IBAFワールドカップ、アジア大会にも1度出場した。予選なども含めれば、杉浦は社会人野球でプレーした10年間、ほぼ毎年何かしらの国際大会に出場していたことになる。“ミスターアマチュア”は、同時に“ミスター日の丸”でもあった。

 初代表は90年、同志社大4年で選出されたアジア大会だった。そこで日の丸を背負いプレーする高揚感を知った。ドラフトでの指名は確実だったが、2年後のバルセロナ五輪への出場を目指しプロ入りを拒否。見事代表に選ばれ出場を果たした五輪では、準決勝のチャイニーズ・タイペイ戦で2対2からリリーフ。好調で球は走っていたが失投で3点を失い敗戦投手になった。この悔やんでも悔やみきれない登板が、帰国後に再び届いたプロからの誘いを断らせた。4年を経て28歳になった杉浦はアトランタ五輪代表に名を連ね、金メダルに挑む。


 予選リーグでは韓国、準決勝ではアメリカ相手に先発し勝ち投手に。そして、杉浦が代表に名を連ねるようになってから7戦して7敗しているキューバとの決勝戦に進む。ここでも先発した杉浦は2回途中で降板。しかしチームはその後粘り、キューバをあと一歩にまで追い詰め、その激闘は五輪のハイライトとなり、アマチュア野球への注目も高まった。なお、杉浦はプロアマ混成で出場したシドニー五輪代表にも経験を買われ選出。その翌年引退した。五輪での計5勝は史上最多の記録となっている。

 この時期代表でプレーした中心メンバーは多くがプロへ進みプロ野球を盛り上げたが、杉浦だけは最後までアマチュアとしてプレーすることを望んだ。特に最後まで誘いをかけたのはダイエー(現ソフトバンク)だったというが、もし入団が実現していれば、90年代末から00年代前半にかけてダイエーが強豪化していく過程を、アトランタ五輪のチームメイト、井口資仁(現ロッテ)や松中信彦らと共に支えていたことだろう。当時のダイエーが慢性的に先発投手を欠いていたことを考えれば、エース級の役割を果たすこともあったはずだ。

 だが、杉浦という象徴的な存在がいなかったら「アマチュアが五輪という大きな目標を目指し切磋琢磨していた時代」は、野球ファンの間にここまで強く記憶されなかったのもまた事実。同時に杉浦も、日本で最もその名を知られたアマチュア野球選手の1人となったと言えるだろう。


[杉浦正則・チャート解説]


国際大会がアマチュアのものだった時代の英雄 “ミスターアマチュアの実績度は5。日の丸への思いは強く、度重なるプロからの誘いを断った。こだわり度も5。同時期の代表はNPBを代表する名選手を多数輩出。その中心にいた杉浦が、もしプロの舞台でプレーしていたらどんな成績を残したか――。その空想は多くの人がしたはず。もしも…度も5。


チャートは国際大会での残した成績=「実績度」、代表への思いの強さ=「こだわり度」、代表に懸けることで犠牲にしたキャリアを想像したくなるかどうかの「もしも…度」を5段階評価したもの(以下同)。


オマール・リナレス(キューバ)

 杉浦が闘志を燃やした五輪で、壁となって立ちはだかったキューバ代表の主軸を打っていたのがリナレス。年齢も杉浦の1歳上であり、まさに同世代のライバルだった。1982年に15歳ながらキューバリーグでプレーするようになり、17歳で早々に代表入り。以降オリンピック3度、IBAFワールドカップ、インターコンチネンタルカップに6度、パンアメリカン競技大会、中央アメリカ・カリブ海競技大会4度など、キューバ代表が出場する国際大会で活躍した。五輪では2つの金メダル、W杯では6度の優勝を果たすなど、2001年に代表引退するまで“最強キューバ”の中心的打者であり続けた。

前述の大きな国際大会計23度の通算成績は、749打数322安打で打率.430、78本塁打、227打点。規格外の活躍は「キューバの至宝」と呼ばれるのに十分過ぎるものだといえるだろう。守備は多くの試合で三塁を守ったが、優れた技術を見せ、打撃一辺倒ではないバランスも備えていた。アトランタ五輪では予選の日本戦で決勝タイムリー、決勝では杉浦から先制2ランを放つなどして立ちはだかった。

 2003年から中日で3年プレーしたあとは表舞台から身を引いたが、2010年に日本で開かれた世界大学選手権にキューバ代表チームの打撃コーチとして来日した。


[リナレス・チャート解説]

 五輪、W杯、インターコンチ杯通算243安打、打率.452、62HR、169打点は「キューバの至宝」の名に恥じないもの。実績度は5。キャリアの最後に来日したが年俸も安いものだった。代表を離れ亡命し、国外でプレーしようとする意思は薄かったと推測される。こだわりは4。ただ「至宝」がMLBの舞台でどんな打撃を見せるかには誰もが興味を持っていた。もしも…度は5。



上原浩治(日本)

 高校時代は同級生の建山義紀(現レンジャーズマイナー)がエースを務め、その影に隠れる存在。1年浪人して大阪体育大学に進み、ここで覚醒する。投手として大きく成長し、大学3年となった97年にインターコンチネンタル杯の代表メンバーに選出された。スペインで行われたこの大会には、チームメイトに杉浦が、キューバ代表にはリナレスが名を連ねている。

 まさに新進気鋭の選手として代表に入った上原は、勝ち進んだ決勝戦で、92年、96年の五輪連覇を含む公式戦151連勝中のキューバに立ち向かう。雨の中の戦いで集中力を欠いたキューバ打線を6回途中まで1失点でしのぎ、長い連勝にストップをかけてみせた。上原はこの大会の最優秀投手になっている。さらに同じ年の日米大学野球選手権でも活躍した。

 この活躍でメジャーからも注目を浴びる投手になった上原は、ドラフトで99年に巨人入り。時を同じくして国際大会へのプロ選手の参加が解禁され始めたため、上原が国際大会に出場する可能性が保たれた。

 2004年のアテネ五輪で上原は国際大会の舞台に戻ってくる。イタリア戦とチャイニーズ・タイペイ戦の2試合に先発し1勝を挙げた。さらに2006年には第1回WBCでは準決勝の韓国戦で7回を無失点に抑えるなど2勝。日本代表を勝利に導きV1に貢献する。2年後の2008年にも北京五輪代表入り。予選から抑えを務め2セーブを挙げた。

 北京五輪後に代表引退を表明。2009年のWBCにも出場する気がないと明言した。日本代表が2連覇に沸く中、FAでオリオールズへ移籍。以降はMLBでプレーし代表とは縁がなかったが、2013年のWBCでは声の掛かったMLB勢は全員辞退したが、声がかかれば考えたかもしれないとコメント。自らの名を世界に知らしめ、雑草から飛躍することになった国際大会への思いは健在のようだ。



[上原浩治・チャート解説]

 「雑草」上原の名をメジャーにまで知らしめた97年のインターコンチ杯、日米大学野球選手権、プロ参加可能になった五輪、WBCで通算25登板、12勝0敗2セーブ(予選含む)と無類の強さ。実績度は5。北京五輪後に代表引退を表明。ただ13年のWBCでは代表への思いもちらつかせており、やはり思い入れはある様子。こだわりは4。代表のためにキャリアを犠牲にしたことはなかった。もしも…度は3。ただ、インターコンチ杯で評価され届いたMLBからのオファーを受け入れていたら…という思いは消えない。



その他の(WBC以外の)国際大会で輝いた選手たち

オレステス・キンデラン(キューバ)
 1992年のバルセロナ五輪で28歳にして初めて代表入りした野手。その後力を発揮し、リナレスらとともに主軸を打ち、バルセロナ、アトランタ、シドニーでの3大会連続メダル(金・金・銀)に貢献した。2003年に来日し実業団・シダックスに加入。その年の都市対抗では5試合で4本塁打して久慈賞(最も優秀な打者への賞)を獲得した。


アントニオ・パチェコ(キューバ)
 リナレスやキンデランらと同時期に活躍した野手。二塁や遊撃を守った。キンデランと共に来日し実業団・シダックスに加入。引退後はキューバリーグで監督を務め、2008年の北京五輪ではキューバ代表の監督を務めた。


ホセ・コントレラス(キューバ)
1996年のアトランタ五輪頃からのキューバ代表の主力投手。1997年のインターコンチネンタル杯決勝では上原と投げ合って敗れ、キューバ代表の国際大会連勝記録を途絶えさせた。しかし2000年のシドニー五輪では日本を相手に完封。リベンジを果たしている。2002年に亡命しMLB入り。ヤンキースとレッドソックスが争奪戦を繰り広げヤンキースに入団した。今年2月、キューバの海外渡航制限緩和を受け、10年ぶりの帰郷を果たしている。


郭泰源(チャイニーズ・タイペイ)
 1982年のIBAFワールドカップ、1983年のアジア野球選手権(ロス五輪予選)、1984年ロス五輪で好投。150キロを超える快速球でチャイニーズ・タイペイに銅メダルをもたらす。日米のスカウトの注目を浴びたが西武と契約し1985年から1997年までプレー。2007年にはチャイニーズ・タイペイ代表の監督となり、北京五輪出場を目指したが予選で敗退。


郭李建夫(チャイニーズ・タイペイ)
 1992年のバルセロナ五輪の準決勝で日本代表を破ったチャイニーズ・タイペイ代表のエース。1993年に阪神入り。その後は国際大会との縁はなかった。現在は台湾の大学で指導者を務める。


ジム・アボット(アメリカ)
 1988年のソウル五輪の優勝メンバー。決勝の日本戦に登板し勝利投手になった。先天性右手欠損ながら片腕で投球と捕球をこなす投球技術は話題になった。当時は学生だったが、MLBドラフトで1巡目指名を受けメジャーへ。通算87勝を挙げている。


ベン・シーツ(アメリカ)
 プロ選手の参加が解禁された2000年のシドニー五輪で、アメリカはキューバ代表を下し優勝。シーツは決勝のキューバ戦で完封したほか、予選では日本にも7回無失点の好投を見せアメリカ代表に1988年以来の金メダルをもたらした。阪神などでプレーし現在はスカウトを務めるアンディ・シーツのいとこ。


クリス・オクスプリング(豪州)
 2004年のアテネ五輪で14回2/3を無失点と好投し初の銀メダルを引き寄せた。日本との準決勝では7回途中まで無失点に抑え、日本のメダル獲得を阻んだ。五輪後に阪神入り。


ジェフ・ウィリアムス(豪州)
 2003年にMLBから阪神に移籍し1年間活躍を見せると、2004年のアテネ五輪の豪州代表に招集される。4強に進出するとウィリアムスは準決勝で救援登板。好投し1対0で日本を撃破。オールプロで金メダルを狙った日本の決勝進出を阻んだ。決勝ではキューバに敗れたが初の銀メダルを豪州にもたらした。2006年のWBCでは、阪神入りしたオクスプリングとともに阪神でのプレーを優先し出場を辞退している。


松中信彦(日本)
 1996年のアトランタ五輪、2000年のシドニー五輪に出場。アトランタ五輪決勝のキューバ戦では、序盤に6点を失う劣勢を跳ね返す満塁本塁打を放ち、あわやという展開に持ちこんだ。


宮本慎也(日本)
 2004年のアテネ五輪、2006年の第1回WBC、2008年の北京五輪に出場。五輪ではキャプテンを務めた。チームづくりに時間をかけられないプロによる代表チームをまとめあげる役割を務めた。アテネ五輪では36打数18安打とよく打った。


高橋由伸(日本)
 決勝でキューバに勝利した1997年のインターコンチネンタル杯に出場。好投する同じ年(で誕生まで同じ)の上原を援護する先制本塁打など大会4本塁打。2004年のアテネ五輪の代表にも選出され、3本塁打8打点するなど長打力を見せている。


ロサンゼルス五輪野球日本代表[公開競技時代](日本)
 1984年、野球はロサンゼルス五輪で公開競技ながら初めて五輪種目に。ただしアマ最強を誇っていたキューバは東西冷戦の影響で不参加。韓国、チャイニーズ・タイペイ、アメリカなどを破った日本は五輪初代の金メダル獲得国になった。

 伊東昭光・伊藤敦規・宮本和知・嶋田宗彦・秦真司・正田耕造・和田豊・広沢克己・荒井幸雄・古川慎一・熊野輝光ほか。


ソウル五輪野球日本代表[公開競技時代](日本)
 1988年のソウル五輪もキューバは不参加。日本は予選でプエルトリコ、チャイニーズ・タイペイ、オランダを下し準決勝で韓国を破る。連続金メダルを目指したがアメリカに敗れ銀メダルに終わった。野茂や古田、野村など球界を背負う選手が数多く代表入りしていた。

 潮崎哲也・渡辺智男・鈴木哲・吉田修司・石井丈裕・野茂英雄・古田敦也・米崎薫臣・野村謙二郎・小川博文・大森剛・中島輝士・笘篠賢治ほか。


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 国際大会の歴史は長く、時代ごとに名選手がいます。今回は杉浦やリナレスが活躍した時代を中心に、その前後の時代から選手を拾い出しました。

 短いスケジュールの間に最大の力を発揮することが求められる国際大会は、国内リーグとは、自ずとプレーの質も変わってくるもの。国際大会で活躍した選手が見せてくれる一世一代のピッチングやバッティングは、やはり見るものを惹き付けます。

 そしておそらく、選手たちの中に残るものも違ったものなのでしょう。緊張感の中で味わう濃密な時間は、選手のキャリア対するスタンスさえも変えているからです。プロの度重なる誘いを断ることになった杉浦を筆頭に、巨人入団後にMLB挑戦を求め続けた上原も、国際大会で味わった緊張感をもう一度求めたからだったように映ります。一度代表引退を公表しながら、MLBの環境に慣れ余裕が生まれたと思しき上原が、今年のWBCに興味を示しているのを見て、やっぱり好きなのだろうな、と思わずにはいられませんでした。

 そのほかにも、世界を意識していないと公言していた選手がMLB挑戦の意向を見せ始めたり、クールさが売りだった選手がダイビングキャッチやスライディングで闘志をあらわにしたり、また敗戦時には人目をはばからず悔しがったり――。国際大会には選手を変える力があります。それがプロ野球をより面白くしてくれるものであることは間違いないでしょう。


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