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米騒動で中止、敗者復活戦、日本刀の刃渡りで全国制覇へ…なんでもあり?の黎明期【高校野球100年物語】

 夏の甲子園の前身である「全国中等学校優勝野球大会」。その第1回が行われたのは1915年。今に連なる高校野球が始まって100年が経過したことになる。『週刊野球太郎』の特集「高校野球100年物語」では、この高校野球史を振り返り、激闘、印象的な選手、秘話など重要な100の物語を紹介していく。

 6月は戦前の出来事に絞って、物語を綴っていく。

〈No.008/印象に残った勝負〉
甲子園大会には敗者復活戦があった!


 「高校野球、特に甲子園は一発勝負だからこそ感動を誘う」なんてフレーズを耳にすることは多い。だが、一発勝負でなくても高校野球はドラマを呼ぶ。というのも、1916年の第2回大会と1917年の第3回大会では敗者復活戦が採用され、第3回大会の覇者、愛知一中(東海代表)は敗者復活戦を勝ち上がっての優勝だったからだ。しかも、この愛知一中、決勝戦で6回2死まで関西学院中にリードを許していたが、突然の夕立で降雨ノーゲームに。翌日の再試合で延長戦の末に勝利をもぎとったのだから、「史上最大の逆転優勝」と呼んでもいいだろう。

〈No.009/泣ける話〉
米騒動で大会中止。戦えずに涙をのんだ球児たち……


 1918年7月末、富山県で米騒動が勃発。すぐに全国に波及し、8月12日には大阪で軍隊が出動するまでの騒ぎに発展した。これで割を食ったのが球児たちだ。各地区大会を勝ち上がった14の代表校は、14日からの大会に備え、すでに開催地・鳴尾に集結していた。しかし、朝日新聞社は騒動の大きさを鑑みて13日に大会延期を発表。その後、16日に宿舎で待機していた各校に大会中止の連絡があった。特に悔し涙を流したのは、前回大会で悲運の準優勝、今大会で優勝候補と目されていた地元、兵庫代表の関西学院中だったのではないだろうか。優勝旗は、前年覇者の愛知一中が持ち帰り、翌年まで保管することになった。

〈No.010/印象に残った選手〉
甲子園史上に輝く「元祖ドクターK」。明石の怪童・楠本保!


 昭和初期に活躍した大投手が明石中の楠本保だ。1930年のセンバツを皮切りに、春・夏計6回甲子園に出場。「世紀の剛球投手」「明石の怪童」などの異名で呼ばれた。特に圧巻だったのが1932年のセンバツ。大会史上初となる全員奪三振を2度も達成(1933年春にも1試合達成)し、チームを準優勝へと導いた。1933年、最後の夏の大会も準優勝するなど、甲子園通算15勝(5敗)、8完封。その後、慶應義塾大学に進み、東京六大学リーグでも活躍。大学卒業後、戦地に赴き、中国で戦死している。

〈No.011/印象に残った監督〉
スパルタ&精神野球で全国制覇。「広島野球」を育てた石本秀一


イラスト:横山英史

 1916年、1917年の大会には広島商の選手として出場した。その後、不甲斐ない母校の野球に憤怒して26歳のときに監督に就任。スパルタ式の猛練習と、日本刀の刃渡りなどで鍛えた精神野球で、完成したばかりの甲子園球場で行われた1924年夏に全国制覇を成し遂げる。「甲子園」の初代王者に輝いた。その後、1929、1930年に夏連覇、1931年にはセンバツも制し、史上初の夏春連覇を達成。“学生野球屈指の名将”とうたわれた石本は、1936年の阪神を皮切りに金鯱、旧大洋、旧西鉄、太陽、広島でプロ野球の監督も歴任。特に、地元である広島では初代監督を務め、球団史の礎を築いた。

〈No.012/知られざる球場秘話〉
競馬場の中に設置された2代目スタジアム・鳴尾球場


 第1回大会に続き、翌1916年の第2回大会も大阪府の豊中球場で開催された。だが、増え続ける観衆に対応することが難しくなり、1917年の第3回大会から、今の兵庫県西宮市にあった鳴尾球場(鳴尾運動場)に会場を移して開催された。この球場は、もともとあった鳴尾競馬場の中に設置されたもので、競馬開催時期には取り除けるように移動式スタンドが採用された。また、会期を4、5日で切り上げるため、東西に2つの球場が設けられた。甲子園球場ができるまでの7年間、中等学校野球はこの地で更なる成長を遂げたことから、「伸びゆく鳴尾」と称されている。

〈No.013/時代を彩った高校〉
史上初の連覇達成! 和歌山中の栄光時代


 大会史上初めて連覇を達成したのは、1921、1922年の覇者・和歌山中だ。朝鮮、満州という外地からの出場校も増え、17代表で争われた1921年の第7回大会を圧倒的な打撃力で制した和歌山中。翌年の第8回大会でも決勝戦に進出した。7回終了時点で0−4という劣勢から8、9回の2イニングで一挙8点を挙げ、大会史上初の連覇を達成した。翌1923年の第9回大会も和歌山中は決勝に進出したが、惜しくも敗れて準優勝。三連覇達成は叶わなかった。

〈No.014/世相・人〉
野球文化の発展に大きく寄与した、岡本一平の“爆発力”


 甲子園にまつわるトリビアとして有名なものに、「甲子園の『アルプススタンド』を命名したのは岡本太郎の父、岡本一平」というものがある。朝日新聞記者でもあった岡本氏が、甲子園球場を埋めた白シャツの群衆を見て、そう命名したとも、息子である太郎氏が「アルプスみたい」と言ったのを拝借したとも、諸説語り継がれている。

▲アルプススタンドと命名した時、このような光景が見えていたのだろうか

 だが、岡本一平は甲子園球場が誕生する遥か以前、1917年の第2回大会から、朝日新聞紙上において漫画記事を掲載し続け、毎回好評を博していたことはあまり知られていない。たとえ「アルプススタンド」と命名しなくとも、野球文化を紡いだ偉人であることには違いがないのだ。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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