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王貞治、柴田勲、尾崎行雄……今もなお輝くレジェンドプレーヤーが高校球児だった頃【高校野球100年物語】

【この記事の読みどころ】
・3季連続対戦した柴田勲と尾崎行雄のライバル関係
・延長18回、翌日の再試合も投げ抜いて奪三振記録を樹立!
・投手でノーヒッター、打者で本塁打連発だった王貞治の甲子園

〈No.043/印象に残った勝負〉
因縁のライバル、法政二vs.浪商、柴田vs.尾崎


 1960年夏と翌1961年の春、夏春連覇を達成して一時代を築いたのがエース柴田勲(元巨人)を擁した法政ニ高だ。その法政二と甲子園で3季連続対戦し、名勝負を演じたのが浪商であり、エースの尾崎行雄(元東映)だった。

 1960年夏の大会では2回戦で対戦した両校。2年生エース柴田と1年生エース尾崎の投げ合いは、終盤8回に集中打で4点をあげた法政二が4−0で勝利。その勢いのまま初優勝を遂げた。翌年のセンバツでは準々決勝で対戦し、またしても3−1で法政二&柴田に軍配。その後も勝ち進んだ法政二が夏春連覇を達成した。

 そして、1961年夏。史上初の3季連続Vを目指す法政ニと浪商は準決勝で3度目の激突。「事実上の決勝戦」とうたわれたカードは両校一歩も譲らず、勝負は延長戦に。延長11回に2点を勝ち越した浪商が三度目の正直を叶え、翌日の決勝戦も制して15年ぶりの夏の栄冠を手にした。

〈No.044/泣ける話〉
消えた真紅の優勝旗に翻弄された人々


 1954年11月末にその「事件」は起きた。その年の夏、甲子園を制した中京商の校長室から、飾ってあった真紅の優勝旗がこつ然と姿を消したのだ。学校側はすぐに警察に被害届を提出。すぐに捜査が開始された。また、野球部員はもちろん、全校生徒を総動員して学校中を捜索。挙げ句、占い師にも頼ってみたが年が明けても優勝旗は見つからなかった。

 ところが、紛失から85日目の1955年2月のある日、中京商から600メートル離れた中学校の床下で、廊下を修理していた職人によって優勝旗は発見された。もっとも、盗んだ犯人は結局見つからず、動機も不明。多くのモヤモヤを残したまま事件は迷宮入りしてしまっている。

〈No.045/印象に残った選手 part1〉
高校野球の「延長ルール」をつくった奪三振王・板東英二


 1958年、徳島商の板東英二は投げに投げまくった。

 まずは4月。春季四国大会・準決勝の高知商戦では延長16回を、翌日の決勝・高松商戦でも延長25回を一人で投げ抜いた板東。この登板過多は当時でも社会問題となり、「延長18回を終えても引き分けの場合は翌日に再試合を行う」というルールが制定されるキッカケとなった。

 そして夏。甲子園の準々決勝、徳島商対魚津の試合は、0−0のまま、延長18回まで終わり、引き分け再試合となった。これに導いたのがやはり板東英二。自身の投げ過ぎがキッカケで生まれた新ルールの適用第一号だった。

 翌日の再試合に勝った徳島商は、最終的に決勝にまで駒を進めて準優勝。再試合も含めた6試合で坂東が奪った三振は83個を数えた。この数字は今も破られない、1大会最多奪三振記録である。

▲板東英二(徳島商)/イラスト:横山英史

〈No.046/印象に残った選手 part2〉
「世界の王」の片鱗を見せつけた2試合連続本塁打


 後にホームラン世界記録を樹立する王貞治(元巨人)は、早稲田実業時代から「スター選手」だった。1956年夏、1年生にして外野手兼控え投手として甲子園出場を果たすと、翌1957年のセンバツでは2年生エースとして出場。2回戦から準決勝まで3試合連続完封の好投をみせ、決勝戦では左手を負傷しながらも血染めのボールを投げ続けて、見事優勝投手に。そして、同年夏の甲子園2回戦では延長11回を投げ抜き、ノーヒットノーランまで達成してしまう。この大会は準々決勝で敗れてしまうが、投手・王貞治としては、まさに絶頂の時代だった。

 翌1958年のセンバツで甲子園に帰還した王。この大会でも、チームのエースとして出場したが、むしろ目立ったのは打者としての才能。2試合連続の大ホームランを放ち、後の大打者の片鱗を見せつけた。

〈No.047/印象に残った監督〉
伝説の名将、原貢ができるまで。


 原貢が福岡の炭鉱の街・大牟田にある三池工業の野球部監督に就任したのは1959年、まだ25歳のときだった。もっとも、就任後の数年間はまったく結果が出せず、ここから後の名将の姿を想像できた人物はいないはずだ。

 だが、スカウトに精を出すようになると少しずつ有力選手が集まるようになり、1965年夏、遂に激戦区・福岡を制して、念願の甲子園出場を果たした。その勢いは甲子園でも衰え知らず。延長サヨナラを繰り返して「三池旋風」を巻き起こし、初出場初優勝の快挙を達成した。このとき、原貢31歳。工業高校としても史上初の全国制覇だった。

 その翌年、原は東海大相模の監督に就任。1974年には息子・辰徳が進学して甲子園常連校に成長すると、その後は東海大でも指導者として大成。アマチュア球界きっての名将に君臨した。

〈No.048/知られざる球場秘話〉
「甲子園の土」を最初に持ち帰った人物は誰?


 涙をこらえながら甲子園の土をかき集める敗れた球児たち……試合後に欠かせないこの光景は、一体誰が最初に行ったのか? 諸説あるが、有力な説は2つに収斂することができる。

 1つは1949年夏、大会3連覇を逃した小倉のエース・福島一雄が気づかぬうちにポケットに土をつめこんでいた、というもの。もう1つが1937年夏、決勝で中京商に敗れた熊本工のエース・川上哲治が小さな袋に土を入れ、それをズボンのポケットにしまった、というものだ。川上はその土を母校のグラウンドに撒いたとされている。

 甲子園球場公式webサイトでは川上説を記載しており、基本的には川上哲治が第一号、というのが近年は主流になっている。ただ、川上以前から人知れず甲子園の土を持ち帰る習慣はあった、といわれることも付記しておきたい。

〈No.049/時代を彩った高校〉
箱根の山を越えた優勝旗、湘南ボーイが成し遂げた伝説


 無名の公立校が甲子園で活躍する姿はいつの時代もファンの胸を打つ。その中でも、エピソードの多い学校が1949年夏に初出場初優勝を遂げた神奈川の湘南だ。

 この優勝劇が語り種なのは、ひとつに創部4年目のまったくの無名校だったこと。部員全員が長髪という時代背景からは考えられないチームカラーだったこと。監督が佐々木久男、左翼手の1年生が佐々木信也(後に慶應義塾大→高橋ユニオンズほか)という父子鷹だったことなど、さまざまな「物語」がファンの心をくすぐった。

 さらに、この優勝は東日本勢としては22年ぶり、関東勢としては第2回大会の慶應義塾普通部以来33年ぶりの優勝だったため、「真紅の優勝旗が箱根の山を越えた」としても話題を呼んだ。

〈No.050/世相・人〉
学制改革が生んだプラカードガール


 湘南高が優勝した1949年の甲子園では、ある「甲子園名物」が誕生した。開会式におけるプラカードガールの存在だ。

 プラカードガールはその前年、戦後の学制改革によって「全国高等学校野球選手権大会」と改められたことをきっかけに、男女共学の時代に甲子園でも新機軸を、として打ち出された施策だった。担当するのは西宮市立西宮高校の女性生徒たち。後年には、プラカードガールになりたいから、と入学する生徒まで生んでいる。また、このプラカードガールと球児で恋が生まれ、結婚にまで至った例も存在する。ドラマと愛で満ちる空間、それが甲子園球場なのだ。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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