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《名物オーナー列伝》阪神タイガースの三代目オーナー・野田誠三は甲子園球場設計者!


 これまでに多くの球団が生まれては消え、今に至るプロ野球。終戦直後から、復興へ向けて立ち上がろうとする人々に夢と力を与えてきたが、その発展には選手のみならず、スケールの大きなオーナーたちの尽力もあった。

 週刊野球太郎では『どえらい男たちがいた。プロ野球名物オーナー列伝』を連載。プロ野球史に名を残す、名物オーナーを紹介したい。

甲子園球場を設計した三代目オーナー


 先のセンバツは大阪桐蔭が5年ぶりの優勝。センバツ史上初となる決勝戦における大阪対決で履正社を破り、春の頂点に立った。また延長15回引き分け再試合が2度行われ、清宮幸太郎(早稲田実)フィーバーが再燃するなど、大きな話題を呼んだなかで幕を閉じた。

 その高校野球の聖地である甲子園球場を設計した人物をご存じだろうか。それは設計後に阪神タイガースの三代目オーナーとなる野田誠三だ。

 野田は1922年に阪神電鉄に入社。京大出身の若き技術者だった野田は、入社2年目の1924年に甲子園球場建設の設計主任となった。

 現在行われている春、夏の甲子園大会は1915年夏から始まっている。第1回大会(全国中等学校優勝野球大会)は甲子園球場ではなく豊中グラウンドで行われ、第3回大会から鳴尾球場での開催となったが、人気は高く、観客が殺到したために新球場の建設が急務となっていた。そういった背景があり、阪神電鉄が鳴尾球場に代わる新球場を建設することになったのだ。

 当然、1924年にはパソコンは存在せず、手計算で試行錯誤を重ね、設計図を作り上げていった。その努力の結晶が現在の甲子園球場を形作っている。甲子園球場の歴史を見ると1924年3月11日に起工式が行われ、同年8月1日に竣工式を迎えている。当時は甲子園大運動場と命名され、竣工式からおよそ2週間後の8月13日に第10回大会を開催。来年の夏には100回大会を迎えるが、春、夏の甲子園の歴史の一部は野田が作ったと言っても過言ではないだろう。

藤村監督退陣要求事件


 野田は1941年に阪神電鉄の取締役となり、1951年には社長に上り詰めた。そして、1952年2月29日に阪神の前身球団「大阪タイガース」の3代目球団オーナーに就任。セントラル・リーグ発足の1950年から1952年まではオーナー制を敷いていなかったこともあり、2リーグ制以降では初のオーナーでもあった。

 1974年シーズンの終了後まで23年に渡りオーナー職を務め、その間に、阪神は1962年、1964年と2度のリーグ優勝を果たした。20年以上の長期に渡りオーナー職を務めたのは阪神では最長。阪神の礎を築いたといえる人物だ。

 しかし、その23年は順風満帆だったわけではない。1956年には「藤村排斥事件」が勃発。小山正明、渡辺省三、大崎三男ら12名の主力選手たちと藤村富美男監督との間に軋轢が生じ、選手たちは「藤村監督退陣要求書」を野田に提出。その解決に迫られたのだ。

 事態は、セントラル・リーグ会長の鈴木龍二にも「プロ野球界にとって大きな問題だ。万全を期してもらいたい」と諭されるまでの騒動に。結局、選手、藤村監督ともに契約は更新されたことで両者の鉾は収まったが、オーナー就任からわずか4年でチームが瓦解するようなトラブルを経験したのだ。

 また、この事件では、宿命のライバル・巨人の川上哲治や水原茂監督が仲介に入っている。現在に置き換えると阪神のお家問題に、高橋由伸巨人監督らが仲介を買って出るようなものだ。今とは時代が違ったのだろうし、それだけのプロ野球全体に関わる大問題だったともいえる。

 1974年、野田は特別表彰で野球殿堂入りを果たした。野球殿堂博物館のホームページを見ると、「甲子園球場の設計工事を監督した貢献者」と紹介されており、オーナーとしてではなく設計者としての肩書きが優先されている。それは同ページにある以下の顕彰文でも同様。阪神史上最長のオーナーとしてよりも甲子園の設計者としての功績が大きいというのも面白いところだ。

 野田の功績を称え、その生涯を知ってもらうために、以下にその顕彰文を引用したい。

「阪神電鉄の社長、会長を歴任し実業界に多くの業績を残したが、長年にわたり野球に特別の情熱を傾けた。大正12年、甲子園球場の建設に当って設計責任者となり、努力と研究を重ね、遂に日本最初の近代的大野球場の完成に成功。爾来全野球界に飛躍的な発展をもたらした。高校野球の育成にもつとめ、またタイガースのオーナーとしてプロ野球の振興に尽した」(野球殿堂博物館 顕彰文より引用)

 また、野田が野球殿堂入りした1974年には、奇しくも競技者表彰で藤村富美男も殿堂入り。因縁のある2人が18年の時を経て、再び野球の「殿堂」で巡りあったのだ。「藤村排斥事件」では野田と藤村が直接対立していたわけではなかった。2人はこの巡り合わせに何と言葉を交わしたのだろう。


文=勝田聡(かつたさとし)

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