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第3回 さらば松井秀喜 〜日本編〜

 年の瀬も押し迫った2012年12月28日、日米野球界に衝撃が走った。ニューヨークで行われたその引退会見は急遽決まったにも関わらず、報道陣80人を集めて各TV局が生中継。米メディアも大きく取り上げた「松井秀喜引退」のニュースである。野球界の「旬」なニュースにクローズアップするこのコーナーでは、年末の話題をさらっていった「松井秀喜引退」に注目し、日米通算507本塁打を放った偉大なスラッガーの誕生から現役引退までの「ゴジラの足跡」をレポートします。

「さらば松井秀喜 〜日本編〜」
 その日は朝7時に飛び起き、会社に行く準備もそっちのけで、記者会見を喰い入るように見つめた。
 自分も幼い頃から野球をやっていたこともあり、そして年齢も近いということで、とにかく気になる存在だった。その力強いバッティング、打球の速さ、飛距離…テレビで観ても驚いたが、球場で生観戦するとさらに驚いた。各球団とも、本塁打や打点を稼ぐ役割は助っ人外国人に任せる傾向が強かった90年代の日本プロ野球で、孤軍奮闘していた日本人打者が松井秀喜だろう。タイトル争いのライバルはいつも外国人選手。ホージー(元ヤクルト)、ペタジーニ(元ヤクルトほか)、ゴメス(元中日)、ロペス(元広島)らと互角に渡り合い、その実力を見せつけたのが松井だった。そう振り返ると「ゴジラ」が活躍の場を海外に求めたことは必然だったのかもしれない。
 そんな日本球界の誇りである、稀代のスラッガーの野球人生をまとめてみた。今回は日本での活躍に焦点を当て、本人や関係者のコメントとともに振り返ってみたい。


■日本編
【1974年6月12日/「怪物」誕生】
◆石川県根上町(現能美市)で、その「怪物」は産声をあげた。
◆小学生時代には仲間と野球をするとあまりにも打ち過ぎるのでハンデとして左打席に立たされたなど、その怪物伝説は枚挙に暇がない。
◆中学入学時には170cm、95kgとすでに規格外。相撲や柔道でも注目の逸材だったという。
「北陸の本当に小さな街で生まれ育ち、そこで野球を始め、地元の高校に進学し、小さな時からの目標であった高校野球で甲子園に出るという目標を達成することができました」(引退会見にて本人のコメント)

【1992年/5打席連続敬遠と運命のドラフト】


◆92年8月、夏の甲子園での明徳義塾高戦で5打席連続敬遠され、チームは2回戦敗退。スタンドからは応援メガホンが投げ込まれるなど甲子園が騒然となり、勝負する是非について社会問題にまで発展。
◆11月のドラフトでは4球団から1位指名を受け、巨人が交渉権を獲得。就任したばかりの長嶋茂雄監督自ら引き当てるなど、スーパースター継承は決して偶然ではなかったのだ。
「一番の思い出の選手だった。嫌な思いをさせたこともあり、成功を願っていた。期待以上の成果を残してくれた」(明徳義塾高の馬淵史郎監督)

【1993年/伝説のルーキーイヤー】
◆キャンプインのフリー打撃でサク越え連発。長嶋監督は俊足と強肩に注目し、外野手として抜擢する。
◆5月1日のヤクルト戦でプロデビューし、2打席目でライトフェンス直撃の二塁打を放ち、初安打初打点を記録。翌2日には高津臣吾からプロ1号を東京ドームのライトスタンドへ運んだ。
◆長嶋監督は3年間で一流の四番打者に育てる「1000日計画」というプランを実行。毎日毎日、二人三脚で素振りを繰り返したという。
「センターにコンバートされるときに『ジョー•ディマジオのような選手を目指せ』という言葉を(長嶋監督に)いただきまして」(引退会見にて本人のコメント)

【1994年/日本一を経験】
◆4月9日、広島との開幕戦で2本塁打。4月には自身初の月間MVPを受賞。2年目ながらシーズン20本塁打を記録した。
◆中日とのリーグ優勝を賭けたシーズン最終戦「10.8決戦」で本塁打を放ち、リーグ制覇に貢献。日本シリーズでは西武を倒し、チームは日本一に輝く。
「いつかは松井監督をみてみたいよ」(巨人•長嶋茂雄終身名誉監督)

【1998年/松井時代の到来】

◆シーズン34本塁打、100打点で自身初となる本塁打、打点のタイトルを獲得。絶頂期を迎える。
◆オールスター戦ではナゴヤドーム最上段の160メートルアーチをカッ飛ばす。
◆順風満帆にみえたシーズンだったが、この年のキャンプ中に「左膝軟骨損傷」を負う。以降、松井について回る悩みの傷となってしまった。
「巨人で一緒だった20歳前後の頃の松井というと、やはりパワーが印象に残っている。技術的には荒削りだったが、それを補ってあり余るパワーがあった」(落合博満氏)

【2002年11月/日本球界との別れ】
◆史上8人目のシーズン50号本塁打を達成。この年、それぞれ3度目の本塁打王、打点王に輝く。
◆このシーズン終了後にFA権を行使して、メジャー挑戦を表明する。
「99年のオフ、日本シリーズに進出できず、時間ができて、ニューヨークでヤンキースの試合を1回でいいから観てみたいと思い行ったのですが、そこで見たゲームが僕にとっては、何か大きな運命だったと思います」(引退会見にて本人のコメント)


 本人のコメントにあるように、メジャーへの憧れは日本を離れる数年前から抱いていたようだ。
 FA移籍表明の際には、希望を持って明るい表情で会見に臨むのが普通だが、本人は沈痛な面持ちで「最後の最後まで悩んで苦しかった」とコメント。自分のことよりもファンの思いを大切に考える、こういった人柄こそ、皆に愛された要因の一つであることは間違いないだろう。
 次号では野球選手として円熟期を迎えたMLB編を振り返る予定です。お楽しみに!

※次回更新は1月15日(火)になります。

文=鈴木雷人(すずき・らいと)/会社勤めの傍ら、大好きな野球を中心とした雑食系物書きとして活動中。自他共に認める「太鼓持ちライター」であり、千葉ロッテファンでもある。

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