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甲子園は松坂大輔のためにあったのかもしれない【高校野球100年物語】

【この記事の読みどころ】
・甲子園に愛された松坂大輔と渡辺元智監督
・2002年の優勝での「男泣き」馬淵史郎監督
・甲子園球場名物のツタは現在育成中


〈No.084/印象に残った勝負〉
3季連続の名勝負! あの死闘も生んだ・横浜対PL学園


 1998年春から1998年夏、1999年春にかけ、3季連続で甲子園を沸かせた組み合わせが横浜とPL学園の対戦だ。特に1998年の春・夏の戦いは、横浜の春夏連覇や「松坂世代」の物語を語る上でも外すことができない。

 最初の対戦は1998年春の準決勝。PL学園は稲田学と上重聡の2枚看板、一方の横浜は絶対的エース・松坂大輔(現ソフトバンク)の投げあいとなった。結果的には9回にスクイズでもぎ取った勝ち越し点を松坂が守りきり、3−2で横浜が勝利。横浜は次の決勝戦も制して、紫紺の優勝旗を勝ち取った。

 2度目の対戦は1998年夏の甲子園・準々決勝、もはや伝説として多くの野球ファンが記憶している「延長17回の死闘」だ。横浜バッテリーのクセを見破ってリードするPL学園、追いかける横浜、という序盤の展開から、松坂が尻上がりに調子をあげて、後半は横浜ペースに。裏の攻撃であるPL学園も延長で2度も追いつく執念をみせたが、延長17回表に飛び出した2ランを松坂が守り抜いて横浜が勝利し、春夏連覇につなげた。

 3度目の対戦は翌春、1999年のセンバツ1回戦で実現。追いつ追われつのシーソーゲームとなったが、前年の対戦を経験していたPL学園の田中一徳(元横浜)、田中雅彦(現ヤクルト)らの経験値が上回り、6−5で制して1998年度の雪辱を果たしている。

〈No.085/泣ける話〉
東奥義塾対深浦――122−0の衝撃


 高校野球100年の歴史上、最大の点差といえば、1998年の青森大会2回戦、東奥義塾対深浦(現木造高校深浦校舎)での122−0というスコアだ。

 1回表に39点を奪った東奥義塾は、その後も攻撃の手を緩めず、毎回の2ケタ得点を記録。打ちも打ったり本塁打7本、三塁打21本、二塁打27本、さらに盗塁は78個。これはすべて、東奥義塾だけの記録だ。

 当時、各地方によってコールドゲームの規定はバラバラだった。青森県高野連の規定では、5回終了時でコールドゲームが成立する規定が無いため、7回まで試合を続けなくてはならなかった。その結果がこの点差となってしまった。ただ、コールドゲームは成立せずとも、試合放棄(棄権)をする選択肢はあった。それをせずに試合成立まで戦い抜いた深浦、最後まで手を緩めなかった東奥義塾、両校への賛否も巻き起こし、野球界以外からも大きな議論を呼んだ。

 この試合の影響もあって、2000年度からコールドゲームのルールを統一。現在の高校野球の規定は「正式試合となるコールドゲームを採用する場合は、5回10点、7回7点とする」とし、春のセンバツと夏の甲子園以外は全てこのルールが適用されている。

〈No.086/印象に残った選手〉
世代を牽引した男。平成の怪物・松坂大輔が成し遂げた偉業


 「超高校級」という言葉は、この男にこそふさわしい。150キロを超えるストレートと、バットに当てることすらできないスライダーを武器に、横浜の春夏連覇、そして高校2年の秋からは公式戦で負けなしのチームを牽引したエース・松坂大輔のことだ。

 嶋清一(海草中)以来、史上2人目の選手権決勝戦ノーヒットノーラン。高校2年秋からは公式戦でどの高校にも敗れることはなく、30勝無敗。のちに数多くのプロ野球選手を輩出する1980年度生まれの球児たちの中、象徴的な存在だったのが松坂だった。

 松坂の凄さはその投球だけでなく、存在感にも表れていた。特に、1998年夏の準々決勝・PL学園との死闘で250球を投げ抜いた翌日、準決勝・明徳義塾戦での出来事がそれを物語っている。8回表の段階でスコアは0−6。誰もが横浜敗退を予想する中、前日の投球過多でこの日は登板予定のなかった松坂がブルペンに登場しただけで球場の空気が一変。奇跡の逆転劇へとつながったのだ。

 球場を飲み込み、時代をも飲み込んだ男は、のちにプロのマウンドでも数々の偉業を残すことになる。高校時代の勇姿はそのプロローグであり、伝説の幕開けだった。

イラスト:横山英史

〈No.087/印象に残った監督 part1〉
4世代で全国を制した男、横浜・渡辺元智監督


 一度なるだけでも大変な「甲子園優勝監督」という名誉を5度(春3回、夏2回)も、しかも1970年代〜2000年代まで、4つの世代で成し遂げたのが横浜高校の渡辺元智監督だ。

 最初の栄冠は1973年春、スパルタ指導で鍛えた守備力が自慢だった。以降、1980年夏には愛甲猛(元ロッテほか)らの活躍で悲願の夏制覇。1998年には松坂大輔を擁して春夏連覇を達成。そして2006年春には圧倒的な攻撃力で5度目の栄冠を手にした。異なる世代に対して異なる指導方法が求められても、それに柔軟に対応できたことが大きな要因だった。

 もうひとつ、渡辺元智監督と横浜が常勝チームとなれた要因は、スカウティングと戦術面を担った名参謀・小倉清一郎部長(2010年4月からはコーチ)の存在も大きかった。そんな小倉部長も2014年夏限りで退任。そして渡辺監督も甲子園通算成績51勝22敗(歴代3位タイ)という数字を置き土産に、2015年夏限りで勇退した。

〈No.088/印象に残った監督 part2〉
高校球界きっての「敵役」明徳義塾・馬淵史郎監督


 1992年夏、星稜・松井秀喜(元巨人ほか)に対する「5打席連続敬遠」を指示した男として、そして1998年夏、松坂大輔を擁した横浜に「奇跡の逆転負け」を喫した監督として、何かと話題に上ることが多いのが明徳義塾の馬淵史郎監督だ。

 いずれの試合も、世間の目はスーパースターである松井・松坂に向けられ、明徳義塾には戦う前から逆風が吹いていた。また、2000年頃からは高校球界の問題点として指摘されることが多くなる「野球留学」を象徴する高校の1つとして、明徳義塾と馬淵監督に対する風当たりはますます強くなった。高校野球において、これほどまでに「敵役」になる監督も珍しい。


 そんな逆風をものともせず、2002年夏には悲願の全国制覇を達成。また、驚異的な「初戦勝率」を誇り、春夏連続では初戦20連勝(2011年春に記録ストップ)、夏の大会限定でも初戦16連勝(2015年夏にストップ)という記録を残している。甲子園通算成績は歴代5位の45勝26敗。まだ59歳、数字はさらに積み上がっていくはずだ。

〈No.089/知られざる球場秘話〉
球場のシンボル「甲子園のツタ」物語


 甲子園球場の姿を思い浮かべる時、緑のツタに覆われた姿を連想する人は多いだろう。1924年8月に完成した阪神甲子園球場にツタが植栽されたのが同年12月。「コンクリートだけの外壁は殺風景すぎて味気ない。ツタならコンクリートにからみついて、古城のような風格がでるかもしれない」というのが、ツタを植栽した理由だった。

 その思惑通り、甲子園球場周辺を覆った約450株、畳8000畳分のツタは甲子園のシンボルとなった。2007年からの甲子園リニューアル工事にともない、一旦取り払われたツタだが、約10年かけてその姿を取り戻す予定となっている。

〈No.090/時代を彩った高校〉
沖縄初の夏栄冠&春夏連覇を達成した興南


 沖縄尚学が沖縄県勢初優勝を遂げたのが1999年センバツ。だが、その後も夏の甲子園で深紅の優勝旗をかかげる沖縄県勢はなかなか現れなかった。

 その分厚い壁を打ち破ったのが2010年の興南だ。2009年も春夏連続で甲子園に出場したものの、春は延長10回に勝ち越され、夏は9回サヨナラ負け、と運に見放されての連敗を経験してから迎えたセンバツ。まず1勝を、と関西を下すと、智辯和歌山や帝京といった名門校を立て続けに打ち破って決勝戦に進出。日大三との延長戦の激闘を制して初優勝を達成。エース・島袋洋奨(現ソフトバンク)の好投が光った。

 そして同年夏。春夏連覇というプレッシャーもかかる中、明徳義塾や仙台育英といった名門校を次々と一蹴。決勝戦では東海大相模を圧倒し、沖縄県勢悲願の夏制覇を達成。史上6校目の春夏連覇という偉業付きだった。エース・島袋は「沖縄県民と勝ち取った優勝です」と語り、県民の涙を誘った。

〈No.091/世相・人〉
高校野球に新たな可能性と問題点を提示した「21世紀枠」


 21世紀最初の大会となった2001年春、第73回のセンバツから採用されたのが「21世紀枠」という選抜方式だった。

 32校という限られた枠に対して、出場校が固定化しがちだったこと、夏の大会との差別化、なかなか甲子園に出られない高校への救済策として導入された21世紀枠。初年度に選ばれたのは、創部111年の歴史を有しながら一度も甲子園出場歴がなかった福島県立安積高校と、レギュラー9人のうち6人が同村出身という沖縄県宜野座村の「オラが村のチーム」宜野座高校だった。

 安積は初戦敗退となったが、宜野座はベスト4に進出。新制度の存在意義を知らしめたが、以降の大会ではほとんどのチームが初戦敗退。大敗を喫することも多かった。また、「読書に励んでいる」「ボランティア活動に積極的」といった、野球の実力とは縁遠いものが採用理由になることも一部から批判を呼んでいるのも事実。制度開始から15年が過ぎ、「21世紀枠」のあり方そのものが問われていることも付記しておく必要があるだろう。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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