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《野球太郎ストーリーズ》巨人2012年ドラフト1位、菅野智之。雌伏の1年を正解だったと認めさせるために(1)

取材・文=大利実

《野球太郎ストーリーズ》巨人2012年ドラフト1位、菅野智之。雌伏の1年を正解だったと認めさせるために(1)

昨年のドラフト会議で交渉権を獲得した日本ハムの入団を拒否し、1年間の浪人生活を送った菅野智之(東海大)。祖父はアマ球界の重鎮、伯父はプロ球界の日本一監督…。菅野にとって学生野球とは、宿命から逃げずに戦った時間でもあった。関係者の証言も交えながら、菅野智之の「心・技・体」の成長を追った。

小さい頃からの「夢」が叶う


 読売ジャイアンツから1位指名を受けた数十分後、東海大学の構内に設けられた記者会見場に、ブレザー姿の菅野智之はにこやかな表情で入ってきた。入口で報道陣に深々と一礼すると、歩を進め、ゆっくりと檀上にのぼった。

「小さい頃からの夢だった球団に入れて、とても嬉しいです。あまり口にはしていなかったですが、この1年間はつらいなって思うこともたくさんあって、心が折れそうになったときもあったんですけど、今日この1日ですべて報われたような気がします」

 菅野は「球団に入れて」と口にした。もちろん、交渉はこれからであるが、さながら入団記者会見のようだった。

 何がつらかったのか。菅野はこんなたとえで表現した。

「目先の目標がなくて、何かずっとゴールの見えないトンネルを走っているような感じもしました。それでも、やっぱり心の中にある大きな夢があったので、それに向けて頑張ろう、支えてもらった人たちに恩返ししようという一心でした。今思えばつらかったこともたくさんありますけど、本当に頑張ってきてよかったなって」

 昨年10月27日に行われたドラフト会議では、相思相愛の巨人だけではなく、日本ハムからも1位指名を受けた。事前の報道はまったくなく、予期せぬ指名だった。抽選の結果、交渉権は日本ハムへ。記者会見で、心からの笑顔は一度も見られなかった。

 菅野が選択したのは、「就職留年」という道だった。東海大学に在籍し、野球部で練習をしながら翌年のドラフトを待つ。昨年11月21日、ドラフトから約1か月後に日本ハムに正式に断りを入れた。

 当然、公式戦に出場することはできない。1年間、実戦から遠ざかるリスクを承知のうえで、日本ハム入団よりも小さい頃からの夢を選んだ。

 そして今年、2度目のドラフト。昨年と同じ記者会見場で終始、笑みを浮かべ、嬉しさを隠しきれないでいた。

「宿命」を背負った野球人生


 菅野の伯父は巨人・原辰徳監督、祖父は東海大学系列野球部顧問であり、かつて三池工高(福岡)、東海大相模高の監督として甲子園優勝を果たし、東海大でも監督を務めた原貢氏である。

 原監督の妹が、菅野の母親ということになる。父親も東海大相模高で投手をやっていた。当時を知る関係者によると、186センチのひょろっとした長身右腕だったそうだ。

 私が菅野を初めて見たのは、新町中3年生のときと記憶している。このときすでに、「あの子、原監督の甥っ子だよ」と言われる存在だった。相模原市の中学野球は、JR上溝駅近くにある横山球場をメインに行われるが、原貢氏が孫のプレーぶりをよく見にきていた。

 周りから見たら、うらやましい環境と思う。伯父がスーパースターで、祖父がアマチュア野球界で名を馳せた監督。野球をやることを考えれば、最高の環境といってもいいだろう。

 だが、当の本人は「いやなことのほうが多かった」と振り返る。

「何か、すごくて当たり前みたいな。普通の人だったら、打ったり投げたりして、『すごいね』って言われるのが、『あの子じゃ当たり前だよね』って。それが、ちょっとつらかったですね」

 原辰徳の甥ではなく、「菅野智之」というひとりのピッチャーとして見てほしい、認めてほしい。それが、菅野の大きなモチベーションになっていた。

 背負う宿命から、外れてみようと思ったこともある。高校に進むとき、「菅野が日大三高に興味を持っているんですよ」と、中学時代の恩師から聞いた。実際にグラウンドまで行き、寮や室内練習場の施設を見学している。

「親父やじいちゃんに言われたんです。『いろんなことを考えたほうがいいぞ。周りを見て決めろ』って」

 でも、心の中では「どうせ相模になるんだろうな」「相模以外に行って大丈夫なのかな?」と思っていたという。菅野は宿命を自ら選び、父も伯父も祖父も身にまとった、東海大相模高のタテジマのユニホームに袖を通した。

 高校3年間は、2年春にセンバツに出場するもメンバーから漏れてスタンドで応援。エースとして臨んだ3年夏は、決勝で桐光学園高に敗れている。最大3点差のリードを守りきれず、甲子園出場を逃した。

 当時は185センチ78キロのひょろひょろの体で、連戦に耐えうる体力がなかった。決勝戦は、「もし、甲子園に行けたとしても投げられなかったと思います…」と振り返るぐらい、疲労困憊の状態だった。

 ストレートは140キロちょっと。ストレートよりも、大事な場面ではスライダーで勝負していた印象のほうが強い。

 進路はプロ志望届を出せば、指名される可能性はあった。周りも「行けるときにいったほうがいい」と後押ししていたが、本人が選んだのは大学進学。強い意地があった。

「原監督の甥っ子だから、プロに行けたんだと思われるのがイヤだったんです。大学で文句なしの実力をつけて、プロに行きたい」

 大学での通算成績は37勝4敗、防御率0.57と、圧倒的な数字を残し、2年生のときからは大学日本代表にも名を連ねた。

次回、「力を入れた「体作り」」

(※本稿は2012年11月発売『野球太郎No.002 2012ドラフト総決算プレミアム特集号』に掲載された「26選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・大利実氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)

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