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最後までスタイルを貫いた「いぶし銀」。2000年代を代表する名内野手・井端弘和

 いぶし銀。野球界では使い古された言葉だが、元々は「燻し(いぶし)をかけた銀」、つまり「つやのない灰色」のような色を指す。

 現代ではこれを意訳し、「味わいのある人」や「派手さはないが確かな実力を持つ人」の呼び名として使われている。

 2015年オフ、そんな「いぶし銀」の代表格・井端弘和が現役生活にピリオドを打った。


ブレーク期(1998〜2003年):巨人キラーとして名を売り、正遊撃手を確保


 井端は1997年ドラフト5位で亜細亜大から中日に入団。チームはナゴヤドーム元年のシーズンを最下位で終え、広い本拠地を生かしたチームづくりの真っ只中だった。ルーキーイヤーの1998年9月8日に1軍初出場初スタメン(7番・遊撃)を果たすと、プロ初安打を2点タイムリーで飾る鮮烈デビュー。前途は洋々に見えた。

 しかし、翌1999年は1軍出場なし。同じ遊撃を守る大型新人・福留孝介(現阪神)の加入の影響があった。

 井端が腐らなかったのは、当時の内野守備走塁コーチ・高代延博(現阪神ヘッドコーチ)の存在が大きかったはずだ。高代コーチは福留への個人ノックに井端も伴わせ、「良い方を使いたい」という思いを持っていた。結局、当時の星野仙一監督(現楽天副会長)が福留の抜擢を決断したものの、高代コーチの思惑は数年の時を経て結実する。

 プロ3年目の2000年、井端は内野だけでなく外野も守るユーティリティー選手として、1軍の戦力となった。

 外野守備は未経験だったが、持ち前の野球センスでクリア。今や代名詞となった右打ちで“巨人キラー”を襲名し、特にチームが苦手とした工藤公康、ダレル・メイの両左腕から打ちまくった(のちに工藤は「当時の井端はとにかく嫌な打者だった」とテレビの対談を通じて公言)。

 翌年からは正遊撃手の座を確保すると、2002年には自身初のベストナイン受賞。背番号も48から6にジャンプアップした。


最盛期(2004〜2009年):落合・中日に欠かせぬ存在! 荒木雅博とともに6年連続GG賞


 卓越した技術、センスがもう一皮剥けたのは、落合博満監督(現GM)との出会いがきっかけだろう。打撃では前述の右打ちに加え、状況に応じた広角打法を伝授。流し一辺倒ではなく、時には強烈な引っ張りを見せるようになったのも、この頃からだ。また春季キャンプではほぼ毎日、落合監督によるノックを直訴。全体練習後に行われる通称「落合ノック」は、1時間は優に超えていたという。

 落合政権1年目の2004年、チームはリーグ優勝を果たす。井端は主に2番・遊撃として全試合に出場。選手会長として球界再編問題に苦心しながらも、打率.302、21盗塁の好成績を残して2度目のベストナインを受賞。この年から4年連続で同賞を獲得し、名実ともに球界屈指の遊撃手へ成長を遂げた。


 また、荒木雅博との絆も見逃せない。セカンド荒木、ショート井端のコンビは「守り勝つ野球」を標榜する落合・中日の屋台骨。2004〜2009年の6年連続で、ゴールデングラブ賞を2人で独占した。

 二遊間の当たりに追いついた荒木のトスを受け、井端が一塁へ転送するプレー(いわゆる「アライバプレー」)は今も語り草となっている。打線では1・2番を担い、私生活でも阿吽の呼吸を見せる2人。近年では間違いなく、最高のコンビといえるだろう。


浮沈期(2010〜2013年):体調面の不安、WBCでの大活躍。そして中日を退団


 30代半ばを迎えた2010年、井端に転機が訪れた。遊撃から二塁へのコンバートだ。指揮官の中では「コンバートで視野を拡げ、野球人生を1年でも伸ばすため」という目的もあった。しかし、プライドを持って長年遊撃手を務めてきた井端にとっては難しい切り替えを余儀なくされ、さらに運の悪いことに前年からの懸念だった目の病気が悪化。2001年から続いていた規定打席到達も果たせず、レギュラーの座も若手の堂上直倫に獲られてしまった。
 
 それでも家族の献身的な看病もあり、再び遊撃手へ戻った2012年に復活。3年ぶりのゴールデングラブ賞に輝いた。翌年の開幕前には、WBC3連覇を目指す侍ジャパン入り。当初は主将・阿部慎之助(巨人)のサポートを期待されるものの、本人は切り札的存在、そしてスタメン入りを当たり前のように目指していた。その結果が、ブラジル戦、チャイニーズ・タイペイ戦でのチームを救う同点打へと繋がる。

 WBCでは大会ベストナイン(指名打者)に選ばれる猛打を見せた井端。しかしシーズンでは不振で、捲土重来を期し、このオフに右足と右ヒジの手術を行った。

 ところが予期せぬ形で、井端の野球人生が大きなうねりを迎える。このオフからGMに就任した落合氏ならびに球団から、限度額を大きく超える減俸を言い渡されたのだ。一説には80%を超える減俸といわれ、最大3億円(推定)まで登りつめた井端の年俸は最盛期の10分の1まで下落。そして、井端は16年間プレーし続けた名古屋の地を離れることを決心した。


終末期(2014〜2015年):学生時代からの盟友・高橋由伸とともに引退。最後までいぶし銀を貫く


 傷心の井端に手を差し伸べたのは巨人だった。長きにわたりライバルとして鎬を削ってきただけに、その価値が痛いほど分かったのだろう。井端も入団会見で「強さの極意は何なのか、考えながらやってみたい」と意欲を見せた。

 移籍1年目は主に片岡治大、坂本勇人のバックアップを務めながらも、87試合に出場。古巣・中日戦で一発を放つなど、2009年以来のシーズン3本塁打をマークした。40歳を迎えた今季も開幕からほぼ出ずっぱりで、チームの穴を埋めるバイプレーヤーぶりを発揮。健在ぶりを見せつけた。


 巨人でプレーするひとつのモチベーションとして、ドラフト同期かつ同級生・高橋由伸の存在抜きには語れない。東京六大学リーグで本塁打記録を更新した「天才打者」と、東都大学リーグで揉まれ、下位指名からコツコツと実績を積み重ねた「いぶし銀」。選手としてのタイプは異なるものの、長年切磋琢磨をしてきた間柄で互いにリスペクトをしていた。特に井端は「由伸が辞める時は自分も辞める。いつも最後の試合のつもりで」ゲームに臨んだという。

 引き際は突然訪れた。10月23日、高橋が来季の監督就任要請を受諾し、同時に現役引退を発表。翌日には井端も今季限りで選手生活に幕を閉じることを表明した。まさに、「由伸が辞める時は自分も辞める」形を取ったのだ。同級生のスターが引退即指揮官に就く陰で、ひっそりと、そしてスパッと身を引く――。最後まで井端は「いぶし銀」らしかった。来季からは1軍内野守備走塁コーチとして、高橋監督の懐刀となる。


文=加賀一輝(かが・いっき)
ダルビッシュ有と田中将大に挟まれた世代の野球好き。地元・中日と、初めて仕事を受け持ったオリックスを中心に、プロアマ海外問わず各地の野球を愛でる。外野応援、メディア、登場曲など、野球の周辺にあるカルチャーが大好物。


次回12月15日(火)は『プロ野球引退物語2015』関本賢太郎編と東出輝裕編を公開予定(*本文中の年俸は全て推定)

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