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監督の「勘違い」によって首位打者を獲得?

 雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!


 現在発売中の『野球太郎 No.006』にて掲載、<伝説のプロ野球選手に会いに行く>の永淵洋三さんインタビュー。誌面に載せ切れなかった話を前回からお伝えしていますが、今回はバッティングについてです。

 1968年、高校から社会人を経て、26歳で近鉄に入団した永淵さん。当時のチームには左投手も左打者も希少だったことから、三原脩監督の方針の下、ルーキーイヤー当初は投手兼野手として活躍していました。バッティングはおもに代打で、新聞が<ツキ男>と見出しをつけるほど、投手兼任でも好調を維持していたようです。

「僕はね、ピンチヒッターで出るとほとんど成功したんですよ。新人といったって、だいたい試合の流れはわかってきますから、このへんで出番やなって思う。それでベンチ裏でスイングしてると、三原さんが『おい、ピンチヒッター行け』と。結構、ヒット打ったんですよ」

 当時の自信そのままのような、力強い永淵さんの言葉です。もっとも、打つほうはプロで十分に通用した一方、投げるほうを続けるのは力的に難しい、ということで6月から野手に専念。スタメンでの出場も増えていきます。

「あの頃、僕に言わせれば、今みたいにシンカーなんか投げるピッチャーはいなかったんですよ。僕が憶えてるのは、落とす球を投げるピッチャーは小山正明さんね、東京オリオンズ(現ロッテ)の。それから阪急(現オリックス)の米田哲也さんぐらいのもんですよ。ほとんど、それ以外は真っすぐ、カーブ、シュート」

 対戦したピッチャーのことを尋ねてみるとそういう答えが返ってきて、僕は一瞬、話の方向が見えなくなりました。が、すぐに永淵さんが答えを出してくれました。

「僕は、落ちる球は弱いんです。だから、あの時代はそういうピッチャーがいなかったから、結構、成績を残せたんですね。速い球、真っすぐが好きやったから。それで相手のピッチャーがね、『こんな新人、若造になんで打たれるか』って、わりと真っすぐ投げてくるから、カーンと打てたんです」

 代打の話をしている時とは打って変わって、謙遜の言葉が続きました。

「カーブも打てないですよ、僕は。ただ調子いいときはね、なんとなく、体が反応するんですね。僕はカーブ打とうと思ってバッターボックス入ってなかったから。野村さんみたいにね、カーブにヤマ張って打つなんてできないです。カーブにヤマ張っても打てません」

 「野村さん」とは、名捕手にして強打者の野村克也(元南海ほか)。この方の場合、相手バッテリーの配球を研究して打撃に生かしたといいます。

「研究はしなかったですね、僕は。そんな頭はないですから。ただ、ピッチャーの特徴にしても、攻め方にしても、何度も対戦していくうちにわかってきますよ。だいたいのパターンが。それは自分の頭の中でわかりますからね」

 特に相手の研究もせず、好きな真っすぐに的を絞って、カーブにはなんとなく体が反応する――。僕自身、残念ながら現役時代を見ていない永淵さんのバッティングスタイルが、だんだんと見えてきました。

「僕はもう、1球目から追い込まれるまでは、インコースの真っすぐにヤマ張ってます、ほとんど。ピッチャーは変化球があっても、必ず真っすぐ投げてきますから、その真っすぐを狙って打つわけですよ。それも引っ張り専門です。流すなんて、そんな器用なことはできなかったから」

 あくまでも真っすぐに狙いを定め、インコースを思い切り引っ張っていたという永淵さん。プロ2年目の69年、同じ打率.333で首位打者を分け合った、東映(現日本ハム)の張本勲とはまるでタイプが違っています。

「張本さんはうまかった。あの人は僕と違って広角。アウトコースだったら三遊間でね。ヒットを打つことに関してはもう、素晴らしい技術を持っていた。しかも結構、足速いんですよ。普段は“てれんこ”走ってるけど、内野安打になりそうなときは速いですよ(笑)。そういう面であの人はすごかった」

 奇しくも、同じ背番号10の左打者。69年の永淵さんは9月まで<首位打者は安泰、絶対保障>といわれていました。それが10月に入って、過去2年連続首位打者の張本が猛追。当時の野球雑誌の記事にはこう書かれています。

<永淵にとってみれば、これほど手強いライバルはいない。尻に火がついたというのが心境だろうが、逆に焦りが生じるようだと、まんまと張本の術中にはまってしまうことになる。優勝がかかっているだけに永淵には心理的ハンデがある。その点、残り四試合に“ヒットを打つこと”だけを考えればよい張本。経験にものをいわせて有利ということにもなる>

 10月18日、東映は全日程を終了。その時点で張本は打率.333。一方、阪急と優勝争いをしていた近鉄は、同じ18日からの阪急4連戦で2勝すれば優勝でした。

 しかし近鉄は18日のダブルヘッダーに連敗し、翌19日も敗戦。この時点で優勝はなくなり、阪急との4試合目=シーズン最終戦を残して永淵さんの打率は.333でした。

「3連敗しちゃって阪急が優勝した。そこで張本さんと同率だったんですけど、三原さんから『おまえは単独で獲れるから、最後の試合は出んでいい』って言われたんです。なぜだか三原さん、勘違いして、『おまえのほうがヒットが多いから、おまえがリーディングヒッターだ』と」

 永淵さんはリーグ1位のシーズン162安打、張本は160安打。打率が上だったわけではありません。それゆえ、三原監督の「勘違い」によって単独での首位打者を逃したように思えますが、もしも4試合目にも出て率を下げていたら、タイでの獲得もなかったわけです。

「運ですね。しかも、もしこれが4試合目まで阪急と優勝争いをしていたら、どうなっていたかわかりません。ペナントがかかっていたら、試合を休むわけにいかないでしょう?」

 そういう背景があったからこそでしょう。永淵さんは同率でのタイトルに関して、「天下の張本さんと一緒ということが光栄です」と言っていました。


▲身振り手振りを交えてバッティングについて語る永淵さん。実働12年で通算962安打、109本塁打、409打点の成績を残している。

(次回につづく)


<編集部よりお知らせ>
 facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。昨年11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行。『野球太郎 No.006』に掲載の<伝説のプロ野球選手に会いに行く>では、元祖[二刀流ルーキー]永淵洋三さんにインタビューしている。
ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント@yasuyuki_taka

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