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代打本塁打歴代1位・高井保弘(元阪急)ら「一芸」でファンを沸かせた名バイプレイヤーたち


 鈴木尚広(巨人)がユニフォームを脱いだ。誰もが「まだやれる」と思っていただけに、その引退発表には衝撃が走った。

 無名の存在でプロ入りし、地道に研鑽を重ねた鈴木は、2005年から12年連続2ケタ盗塁で通算228盗塁を記録。「足のスペシャリスト」として巨人に欠かせない存在までのし上がり、「一芸」で多くのファンを魅了した。

 決してスター選手ではないけれど、鈴木のように「一芸」でプロ野球を盛り上げた名バイプレイヤーを紹介したい。

通算代打本塁打歴代1位・高井保弘(元阪急)


 高井保弘が放った通算代打本塁打は27本。これはNPB歴代1位であると同時に世界記録を誇り、「ここぞ」という場面でその実力を発揮した。

 1964年に阪急へ入団した高井は同じチームの外国人選手、ダリル・スペンサーの影響を受け、投手のクセや配球を研究しはじめる。この研究が少しずつ成績向上に繋がっていっただけでなく、一振りで決める代打男の才能を引き出した。1972年には15本塁打を放ち1軍に定着。1974年には14本目となる代打本塁打を放ち、日本記録を更新する。

 同年、初出場となったオールスターゲームの第1戦。1対2とパ・リーグが1点ビハインドで迎えた9回裏、1死一塁の場面に代打で登場。セ・リーグ3番手の松岡弘(元ヤクルト)から代打逆転サヨナラ本塁打をかっ飛ばしMVPに選ばれた。

 1975年からパ・リーグに指名打者制度が導入されると、指名打者として出場機会が増え、そのバットで阪急の日本シリーズ3連覇に貢献した。


ピンクレディー「サウスポー」のモデル・永射保(西武ほか)


 ピンク・レディーの名曲「サウスポー」のモデルになったと言われている左投手が永射保(元西武ほか)。1972年に広島へ入団するが、1勝も挙げることができず太平洋クラブへ移籍。クラウンライター時代の1977年には主に先発として9勝を挙げ、台頭する。

 球団の親会社が西武に変わってからはリリーフに転向。左腕のサイドスローだった永射は、踏み出した右足が内側へインステップする変則的なフォームで各チームの左打者を苦しめさせた。特に1982年、1983年はワンポイントリリーフとして西武の連続日本一に大きく貢献。その後、大洋、ダイエーと移籍した球団でもその持ち味を発揮し、長く現役生活を続けた。

 永射の登場以降、左のワンポイント投手が重宝されるようになり、現在ではリリーフ陣で不可欠な存在となっている。

内野に佇む守備の職人・上田浩明(元西武)


 西武一筋に生きた18年間のプロ野球生活において、通算打率.179で本塁打はゼロ。この数字だけを見ると、プロ野球選手として物足りなさを感じるかもしれない。

 しかし、上田浩明は守備固めの選手としてチームに不可欠な選手だった。北陽高(現・関大北陽高)から1987年のドラフト2位で入団したが、当時の西武には石毛宏典をはじめ、清原和博、辻発彦、田邊徳雄と内野陣には絶対的なレギュラーがいたため、なかなか出場機会に恵まれなかった。そこで守備をとことん鍛え、自らの武器にすると、レギュラー陣がベテランの域に入りはじめた1994年に1軍定着。試合終盤、主にセカンド、サードの守備固めとして起用されるようになる。

 そんな「守備のスペシャリスト」が、バットで魅せたのが2003年9月13日の日本ハム戦だ。6対6の同点で迎えた8回、途中出場していた上田にチャンスで打席が回ってきた。すると、相手投手・芝草宇宙からセンター前へ勝ち越し打を放つ。殊勲打を放った上田は、もちろんヒーローインタビューに呼ばれた。これがプロ入り最初で最後となるヒーローインタビューだった。

 当時、西武のショートを守った松井稼頭央の派手なプレーとは対極の堅実な守備が上田の持ち味。9回にグラウンドへ立ち、内野に佇む姿はまさに「職人」そのものだった。


文=武山智史(たけやま・さとし)

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