完全試合が達成される前日まで、北海道シリーズを戦っていた巨人。28日の試合のため、夜の青函連絡船で津軽海峡を渡り、一路、青森へと向かった。
この船旅の間、藤本は徹夜マージャンで時間をつぶしていたという。なぜなら、28日の登板予定はなかったからだ。ところが、当初先発予定だった投手が北海道でカニを食べ過ぎて下痢になってしまい、西日本パイレーツ戦の登板が不可能に。巨人の水原茂監督は急遽、藤本に代役を命じた。
この指令に藤本が慌てたのは言うまでもない。体が重く、頭も冴えない状況でプレイボール。コントロールは定まらず、先頭打者にいきなりボール3つ続けててしまう。史上初の偉業は、カウント3-0の窮地から始まったわけだ。
初回先頭打者にカウント3-0。そんな不安な立ち上がりも、そこから3球続けてストライクが入り、先頭打者を空振り三振。以降も体調が悪いなりにのらりくらりのピッチング。ボール球に手を出し、大振りが目立った西日本打線の拙攻にも助けられた。普段はコントロールがいい藤本にしては、珍しくボールが荒れたことも功を奏したのかもしれない。
最終回、最後の打者として登場したのは、西日本の小島利男監督。「代打、俺」で出てきた相手を2ストライクと追いこむと、藤本が最後に選んだ球は“伝家の宝刀”スライダー。小島のバットが空を切り、空振り三振。投球数92、奪三振7、内野ゴロ11、内野飛球6、外野飛球3。4対0で巨人が勝利し、史上初のパーフェクトゲームは完遂されたのだ。
もっとも、この史上初の偉業達成も、目撃したマスコミは新聞記者が3名だけ。カメラマンはゼロ。当然、快挙達成の瞬間の写真も映像も、一切残っていない。
史上初の完全男、藤本英雄についても今一度振り返っておこう。藤本の偉業は、この完全試合以外にも数多い。
まずは、冒頭でも記したように、日本で初めてスライダーをマスターしたこと。肩を痛めていた1949年、メジャーリーグ通算266勝の“火の玉投手”こと、ボブ・フェラーの著書『ハウ・ツー・ピッチング』を読み、復活の切り札として習得したという。このスライダーがなければ、完全試合達成は難しかったはずだ。
また、戦前の1943年に記録した「シーズン防御率0.73」は史上1位の記録。また、「通算防御率1.90」も、2000投球回以上の投手のなかでは歴代1位の大記録だ。
最終成績は200勝87敗。「通算勝率.697」も2000投球回以上の投手のなかでは歴代1位。200勝以上した投手で、100敗以上していないのは、藤本ただひとりだ。
むしろ史上初の完全試合は、これほど偉大な投手から生まれた、という点が誇らしい。
なお、歴代の完全試合達成投手はたったの15人。最後に達成したのは1994年5月18日、巨人対広島戦での槙原寛己。以降、「ミスターパーフェクト」は生まれていない。ちなみに、巨人で完全試合を達成したのは藤本と槙原の二人だけ。ともに背番号17、というのも奇妙な縁といえる。
そもそも、登板予定投手の「カニの食べ過ぎ事件」がなければ藤本の登板自体なかったわけで、野球における縁や巡り合わせの大きさを感じずにはいられないエピソードだ。
もう20年以上出ていない偉大な記録「完全試合」。そろそろ、現役選手の誰かに実現して欲しいところだが、次に目撃できるのは果たしていつになるのだろうか。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)