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【愛すべき助っ人列伝】名手見参! クルーズら二塁、遊撃でゴールデン・グラブ賞獲得の守備職人たち

【愛すべき助っ人列伝】名手見参! クルーズら二塁、遊撃でゴールデン・グラブ賞獲得の守備職人たち

 プロ野球の歴史を彩る助っ人外国人たちを紹介する列伝企画。第3回は助っ人では珍しい二塁、遊撃のポジションでゴールデン・グラブ賞(ダイヤモンド・グラブ賞)を獲得した守備職人を紹介しよう。

(カッコ内の球団名は受賞時の所属球団)

打率1割台でスタメンを張り続けた男


 1972年にダイヤモンド・グラブ賞として創設され、1986年に名をあらためたゴールデン・グラブ賞。素晴らしい守備を見せた職人に贈られる「守備の栄誉」であることは言うまでもないだろう。これまでの日本プロ野球の歴史でのなかで、助っ人野手は「打力」が優先されてきたが、なかには二塁、遊撃のセンターラインで秀逸な守備力を発揮した選手もいる。

 ダイヤモンド・グラブ賞初年度の1972年、実はセ・リーグの二遊間は2人の助っ人が受賞している。

 二塁の受賞者はこの年、来日したジョン・シピン(大洋)。大洋と巨人でプレーし、9年間で通算打率.297、218本塁打を記録した中軸打者だが、二塁守備もうまく、2年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞している。「決して足は早くないが、守備範囲が広い」というのが当時の評価。読みとポジショニングが上手かったということだ。

 受賞後は持病の腰痛で守備力がやや衰えたが、毎年3割、30本塁打に近い成績を残し、なおかつ二塁を守れる助っ人はなかなかいないだろう。

 遊撃は知る人ぞ知るバート・シャーリー(中日)。中軸候補として1971年に入団したバートだが、なんとその年の打撃成績は370打席で打率.174、3本塁打。普通ならばお帰りいただく成績だが、打撃が振るわない代わりにバートは遊撃守備が絶品だった。正確かつダイナミックな守備は投手陣の心をつかみ、日本球界では珍しい守備特化型の助っ人になった。遊撃でゴールデン・グラブ賞を獲得した助っ人はバートだけである。

 ただ、1972年も打率.191。12本塁打を放ったが、さすがに貧打の印象は拭えず、初代ゴールデン・グラブ賞遊撃手の称号を手土産に帰国した。

二塁守備でリズムをつかんだが…


 セ・リーグで次に二塁手としてゴールデン・グラブ賞を獲得したのはデーブ・ジョンソン(巨人)。長嶋茂雄監督の就任1年目である1975年4月に鳴り物入りで入団したが、任されたポジションは不慣れな三塁。打撃も調子を崩してしまい、91試合で打率.197、13本塁打と冴えず、巨人史上唯一のシーズン最下位の戦犯に。「ジョン損」と酷評された。

 しかし、2年目の1976年は本来の二塁にポジションを戻すと打率.275、26本塁打、出塁率.365と大幅に成績を改善。守備でリズムを作り、日本野球にフィットした。ただ故障中に打撃練習を強要されるなど、日本“球界”のしきたりには馴染めず、この年限りで退団した。

 4人目は1998年に二塁で受賞したロバート・ローズ(横浜)。マシンガン打線の中軸として日本一に貢献した好印象による割り増しもあるが、もともとローズは二塁守備が評価されて来日した珍しい経歴の持ち主。1年目(1993年)の年俸はわずか35万ドルだった。素早いスローイングや球際の守備は割り増し分を引いても名手の部類だった。


身体能力で魅せたマルカーノ


 パ・リーグでは阪急の黄金期を支えたボビー・マルカーノが1975年を皮切りに、1977年、1978年、1979年と4度にわたって受賞している。マルカーノはそこそこエラーが多かったが、それを上回ったのは母国・ベネズエラで鍛えた俊敏なバネ。広い守備範囲と強肩でマルカーノだからこそエラーになったプレーも多かった。

 2015年に二塁で受賞したルイス・クルーズ(ロッテ)も記憶に新しい。特にバックハンドトス、グラブトスは「魔術」といわれる領域。スローイングのバリエーションも豊富で職人技が光った。

 今後の日本球界で守備職人は現れるのか。助っ人名手の登場に期待したい。


文=落合初春(おちあい・もとはる)

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