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高校球児コース別プロ入り物語 甲子園なんて関係ない! 異色の球歴を経てプロ入りした男たち

 プロ初マスクの試合で、プロ初のマルチ安打を記録。しかも、コンビを組んだのは同じ早稲田大出身の斎藤佑樹。東京ドームは大いに盛り上がりをみせた。


 6月3日、日本ハム対巨人戦での大嶋匠のことだ。驚きのドラフトから5年、少しずつではあるものの、ブレイクの予感が漂いはじめてきた。

 早稲田大学ソフトボール部所属という異例の球歴にもかかわらず、大学通算80本塁打の打棒を買われて日本ハムからドラフト7位で指名された大嶋。中学、高校時代もずっとソフトボール部だった大嶋の指名は、「話題先行」「通用するはずがない……」と、一部からは散々な言われようもあった。

 そこから一歩ずつ這い上がり、枠の少ない「捕手」というポジションで1軍出場を果たしたのだから、本人の努力たるやいかばかりだろうか。

 高校球児【コース別】プロ入り物語。本稿では、「高校の部活で『目指せ!甲子園』」という道を歩まなくてもプロになることができた、特異な経歴を持つ選手たちを取り上げてみたい。

他競技から転身してプロになった男たち


 甲子園を目指さず、プロ野球へ……この系譜は、大きく3つに大別することができる。そのひとつが大嶋に代表される「他競技からの転身組」だ。

 過去には、元100m日本記録保持者で、東京・メキシコ五輪にも出場した飯島秀雄(元ロッテ)、やりなげ国体6位という経歴からプロ入りした日月鉄二(元西武)らがいる。

 飯島は「代走専門選手」として期待され、1軍デビュー戦で見事に盗塁成功。通算でも23盗塁を記録した。ただ、1軍では打席に立つことも守備につくこともなく、本当に「代走専門選手」として3年で引退。日月は1軍での出場経験がないまま、すぐに現役を引退している。

 やはり、他競技からの転身はそれだけ無茶がある、ということだろう。だからこそ、大嶋の挑戦には意義があるのだ。

 他競技出身、とは言いすぎかもしれないが、軟式野球出身者もこの系譜にあてはまる。高校時代に軟式野球部だった選手といえば、清水章夫(元日本ハムほか)、河本育之(元ロッテほか)らがいる。彼らもまた「甲子園を目指さなかった男たち」と言っていいだろう。ただ、清水は大学で、河本は社会人で硬式野球に触れているため、純粋に「軟式野球一筋からプロへ」という選手はほとんどいないのが実情だ。

 ちなみに、軟式野球出身、というと野球殿堂入りを果たした大野豊(元広島)を連想する。だが、大野は高校までは硬式野球部。軟式は社会人に入ってからだ。


「アメリカ系学校」を経てプロ野球へ


 甲子園を目指さなかった球児たち。2つめのケースは「アメリカ系学校出身」というケースだ。

 代表例は2004年、ドラフト制以降では史上最年少の15歳で阪神に指名された辻本賢人が思い浮かぶ。1989年1月6日生まれ。史上唯一の「昭和64年生まれのプロ野球選手」である辻本は、学年でいえば田中将大世代にあたる。実際、田中と辻本は宝塚ボーイズ時代、数カ月という短い期間だがチームメイトだったこともある。

 15歳でプロ入り、ということから、辻本のことを「中学からプロへ」と認識している人も多いが、厳密にいうと少々異なる。中学1年で渡米し、カリフォルニア州のマタデーハイスクールで日本の義務教育に当たる9年生課程を修了。その後にドラフト指名されたわけだ(ただし、マタデーハイスクールは中退)。

 プロ入り時は大騒ぎになった辻本だったが、ケガの影響もあり、1軍登板機会のないまま2009年限りで退団。その後、アメリカ独立リーグを経て、2011年にはメッツとマイナー契約を結ぶに至ったが、メジャー昇格は果たせていない。

 辻本以外では、藤谷周平(元ロッテ)もこの系譜だ。東京都出身の藤谷は、父親の仕事の関係で中学時代に渡米。高校はカリフォルニア州にあるアービン高校に進学した。

 高校卒業後もアメリカで暮らし、ノーザン・アイオワ大に進学。野球部では主に救援投手として活躍し、2009年6月のMLBドラフトではパドレスから指名を受けたほどだった(入団はせず)。その後、南カリフォルニア大を経て、2010年のドラフトでロッテが6位指名。だが、1軍登板機会はないまま、2014年に自由契約となっている。

高校中退。それでも、野球を諦めなかった男たち


 甲子園を目指さず、プロ野球へ。3つめは、高校を中退し、志半ばで甲子園の夢を諦めた男たちだ。ただし、ドラフト制度がまだ整備されていなかった時代には、あえて中退させてプロ野球へ、というケースも多かった。そのため、ここではそれらの事例以外から打者、投手をひとりずつ挙げておこう。

 高校中退組で一流にのぼりつめた打者。その最たる例が「史上最強のスイッチヒッター」といわれた松永浩美(元阪急ほか)だ。

 実はサッカー少年だったという松永は、中学でサッカー部がなかったために野球を始めたという変わり種。そこから野球にのめり込み、高校でも野球部に入部した。だが、家庭の事情で高校を中退。それでも、野球を諦めきれなかったため、用具係として阪急の球団職員になり、2年後にようやくプロ野球選手になったのだ。

 投手でこの系譜にあたるのが、日本プロ野球を経験せずにメジャーリーグ入りを果たした初の日本人選手、マック鈴木(元オリックスほか)だ。

 特待生として地元・兵庫の野球強豪校に入学した鈴木は、1年生の冬休み、帰省した際に傷害事件を起こしてしまい、自主退学。その後、知人の紹介で団野村氏がオーナーを務めていたアメリカ1A「サリナス・スパーズ」に入団した。

 渡米したのは1992年、17歳のとき。だが、当初の扱いは選手としてではなく球団職員。ボールボーイや洗濯雑用係などを務めていた。鈴木も選手としてプレーするつもりはなく、野球道具は何も持たずに渡米していたが、洗濯や掃除の合間に選手のキャッチボール相手をしていたところ、その強肩ぶりが評判に。いつしかバッティングピッチャーを務めるようになり、とうとう選手として試合出場を果たしたのだ。

 メジャー初登板は1996年、21歳のとき。メジャー初勝利は1998年、23歳。そして2002年、27歳の秋にドラフト会議でオリックスに指名され、逆輸入選手としてNPBのプロ野球選手になったわけだ。

 松永とマック鈴木。奇しくも二人は「球団職員」として雑務をこなし、そこから「プロ野球選手」への道を切り開いた共通点がある。



 マック鈴木は自著『漂流者』の中で、こんなことを綴っている。

《今居る場所が、自分の意に沿わない環境だったとしても、現実から目をそらしてふて腐れているより、状況を受け入れ、前向きに気持ちを切り替えていく方が、ずっと楽しく過ごせるはずだ》

 17歳の少年が洗濯係や掃除係として毎日を過ごすのは、本来は苦痛のはず。それでも、前向きに気持ちを切り替えて毎日を懸命に過ごした結果、少しずつ、野球の世界に戻ることができたわけだ。

 そして、遠回りをしたからこそ、マック鈴木は《野球がしたい。自分がどこまで成長できるか、試してみたい》と切実に思うようになったという。

 どんな異端な道であっても、プロ野球選手になる上で欠かせない要素がひとつだけあるとすれば、この《野球がしたい。自分がどこまで成長できるか、試してみたい》という気持ちの部分なのではないだろうか。


文=オグマナオト(おぐま・なおと)

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