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大魔神に甘いと言われながらもメジャーで活躍した男・斎藤隆〜劣等感を力に変えて

★運命の併殺打からすべてがはじまった

 後に“メジャー屈指のクローザー”と謳われることになる斎藤隆は東北福祉大の2年生まで内野手だった。2年秋に試合前のブルペン。遊んで投げていたところを密かに見ていた当時の伊藤義博監督は、とある決断をしていた。

 次の試合で代打に出る時に「この打席で打てなかったら、ピッチャーになれ」と斎藤に突然の宣告。結局、その打席で内野ゴロ併殺打という最悪な結果に終わり、投手へのコンバートが決まった。「いままでマウンドに上ったことはないのに……」。不安を抱える斎藤だったが、この伊藤監督の決断が“投手・斎藤隆”の運命を切り開いていった。

成長期(1989年〜1991年):水を得た魚のように活躍し、悲願の全国制覇


 小学3年生から野球をはじめ、初めて踏み入れる未知の領域。最初は投球練習をしていると、周りから冷笑されるほど、素人丸出しだったという。しかしそれが返って、闘争心に火をつけることになる。毎日の走り込みで下半身をイジメぬき、タオルを使ってのシャドーピッチングを繰り返すことでフォームを固めていった。

 最終学年になる頃、東北福祉大は快進撃を続け、地方大学の雄から強豪大学の1つに数えられようになる。そんなチームを作山和英(現ソフトバンクスカウト)とともに投手の2枚看板として牽引し、プロからも注目される存在へと成長していった。4年間の通算成績は15勝3敗、防御率1.42。大学に入ってから初めてマウンドに上がったとは思えない活躍ぶりだった。

 残された彼(ら)の使命は、前年にドラフトで8球団競合した左腕・小池秀郎がいた亜細亜大に敗れて達成できなかった大学日本一。そして、1991年の大学選手権・決勝戦で関西大に勝ち、悲願の全国制覇を達成。最高の形で大学生活を締めくくることになる。

第1全盛期(1995年〜1999年):苦難からの覚醒、38年ぶりの優勝


 1991年の秋のドラフト会議で当時の横浜大洋ホエールズから1位指名を受ける。まだまだ荒削りだが、最速148キロのストレートに、スライダー、フォークを織り交ぜたピッチングは、魅力たっぷりな素材型投手として高い評価だった。私も当時の斎藤隆を見て、「即戦力としては厳しいが、数年後はチームの中心的な存在になる」という大器の予感があった。また余談だが、人気俳優・仲村トオルに似ているルックスは、女性ファンから大きな支持を得ていたことも覚えている。

 そんな斎藤の1年目はわずか1軍で6試合の登板。それも0勝2敗、防御率8.44と、散々なルーキーイヤーとなってしまった。しかし、このままで終わらないのがこの男だ。2年目にはローテーション入りし8勝をマーク。その後、一時的に成績は伸び悩むが、5年目には初の2ケタ勝利を達成し、チームの主力へと階段を駆け上がっていった。


 ちなみに、斎藤隆が優れていたのはピッチング、ルックスだけでなく、プロ並みの歌唱力も持ち合わせていた。それは当時からのコアなファンなら周知の事実であると思う。伸び悩んでいた頃の斎藤の思い出と言えば、マウンドよりもオフシーズンの唄声だったような気がする。

 結果としてチームが1998年に成就した38年ぶりの優勝に向け力を付けるなか、斎藤隆も一緒に成長を遂げてゆく。しかし、優勝の機運がいっきに高まった1997年、彼は蚊帳の外だった。右ヒジに遊離軟骨が発見され、除去手術を行ったからだ。そのため、1年間1軍登板無しという野球人生初の投げられない苦しみを経験したが、その悔しさをバネに1998年に復活。13勝5敗、防御率2.94という文句なしの成績で悲願の優勝に貢献し、斎藤自らもカムバック賞に輝く。続く1999年も、14勝3敗と圧倒的な勝率を残した。

転換期(2000年〜2005年):新たな道を模索、そしてメジャーへ


 勝敗で見ると好成績ととれる1999年の防御率は3.95。巡り合わせはよかったものの、その投球には少しずつ陰りが見え始めていた。その不安は2000年に如実に表れる。6勝10敗、防御率5.52と大きく成績を落とし、ケガ以外では1年目以来の低迷に陥った。

 その翌年に大きな転機が訪れた。1999年オフに東北福祉大の先輩でもある大魔神・佐々木主浩がシアトル・マリナーズへ移籍し、クローザーが不在に。そこに新任でやってきた森祇晶監督からクローザー転向を言い渡された。すると、7勝1敗27セーブ、防御率1.67という数字で佐々木の穴を埋め、クローザーという新境地で復活を果たす。

 続く2002年にも20セーブをマーク。オフにFA権を取得し、メジャー移籍を模索するものの、交渉はうまくまとまらず。再び横浜と3年契約を結び、残留に至った。しかし、目標を完全に失い、さらに、山下大輔新監督時代は先発に再転向したことで、数字は悪化し、長い低迷期に入っていく。2005年あたりになると、本人もチームに居場所がなくなりつつあったし、球団も彼の存在を持て余していた感がある。

 大魔神・佐々木は国内ではもうやり残したことはない、という数字と存在感を残して、アメリカに飛び立った。それに対し斎藤の場合は、正直なところ、もう落ち目の投手で、日本での居場所もなくなり、最後の思い出づくりにメジャーに挑戦する程度にしか、周りの人間たちは思っていないような雰囲気だった。それを裏付けるのは斎藤とドジャースが結んだ契約だ。他の華々しくメジャー移籍した日本人プレーヤーに比べると、明らかに条件の劣るマイナー契約だった。

第2全盛期(2006年〜2010年):年齢を感じさせない活躍でメジャー屈指のクローザーに


 開幕直後こそトリプルAスタートだったが、4月にはチームのクローザー(エリック・ガニエ)が故障者リスト入りしたことで、メジャー昇格を果たす。セットアッパーとして好投を続けると、5月中旬からクローザーを任されるようになる。最終的にこの年、球団新人記録となる24セーブを挙げた。翌年には39セーブ、更に2008年にも18セーブを記録。

 また、日本人メジャー最速記録となる99マイル・159キロを記録し、オールスターゲームにも出場。この活躍ぶりで、当時メジャーを代表するクローザーだと評価されるようになる。その後も4球団を渡り歩き、アメリカでは7年間プレーすることとなった。かつて「こんな考えではメジャーでは通用しない」と苦言を呈してくれた佐々木主浩をも上回る実績を残し、メジャー生活を終えることができた。

 いま思えば2002年のオフにメジャー移籍を叶えていれば、異なる結末を迎えた野球人生になった違いない。しかし、その時に先輩・佐々木から厳しいことを言われ、再び先発で低迷したからこそ、斎藤隆はいかにメジャーで通用するかを本気で考え、自らの野球へのあり方を考え直すことができたのではないか、と考えている。

凱旋期(2013〜2015年):故郷に錦を飾り、日本一にも経験


 彼が現役最後の地に選んだのはアメリカではなく日本球界。それも生まれ故郷である仙台に本拠地がある楽天だった。すでに全盛期の力はなくなっていたものの、まだ150キロ近いスピードボールは健在であり、復帰した2013年、2014年は1軍で30試合以上に登板し、防御率2点台と貴重な役割を果たす。2015年シーズンはわずか3試合の登板に留まったものの、日本人としては異例の45歳まで続け、この秋、現役に別れを告げた。



★新しい旅の始まり

 大学では野手をクビになり、周りに冷笑されながらも大学球界屈指の投手に成長。プロでも1年目は、そのレベルの高さに衝撃を受けながらも、38年ぶりの優勝に主力投手として大きく貢献した。甘いと言われた先輩の言葉を糧に、誰もが失敗するだろうと思われる中、メジャー屈指のクローザーへと昇りつめた。

 そう斎藤隆という男は、我々の想像を遥かに越える結果を、自らの反骨精神で残してきた野球人生だったのだ。引退後は、すぐにスポーツ番組のキャスターを担当し、その後、吉本興業への“入社”とインターンシップでメジャーリーグ、サンディエゴ・パドレスのフロント業務を学ぶことが発表された。一般的な選手たちの引退後とは違った路線に進み、今後も日米を繋ぐ架け橋としての活躍が期待される。「あの斎藤隆が?」と、またまた我々の想像を越えるようなことをやってのけるだろう。



次回1月5日(火)は『プロ野球引退物語2015』高橋由伸編と谷佳知編を公開予定(*本文中の年俸は全て推定)


文=蔵建て男(くらたてお)
人気ドラフトサイト「迷スカウト」の管理人。ネットスカウトの草分け的な存在で、プロスカウトとの交流も。Twitterアカウントは@kuratateo。

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