週刊野球太郎
中学、高校、プロ・・・すべての野球ファンのための情報サイト

覚悟を決めて挑むことは必要。それは絶対に無駄なことにはならないからね(第三回)

■古葉竹識さんとの出会い

 人の出会いってあるよね。何回かあると思うんだ。

 『赤き哲学』にも書いてあるけど、僕の場合は古葉竹識さん(現東京国際大学監督)が断然そうだった。

 古葉さんは僕が入団したときはコーチで、その後、カープの監督となって黄金時代を築いた人。同時にプロに入ったばかりの頃、「とんでもないところに来てしまった」と路頭に迷いかけていた僕に「足だけでもメシを食えるんだぞ!」と道を示してくれた人でもある。

 スイッチヒッター挑戦の提案をしてくれたのも古葉さんだった。その意味では、僕の場合は古葉さんとの出会いがすべてだった、と言っても、決して言いすぎじゃないと思っている。

 こういう出会いというのは誰もにチャンスがあるはずだけど、自分が見えていないと捕まえきれないし、気づかないうちにすれ違ってしまうこともあるよね。だから僕の場合は、古葉さんに出会えたこと、古葉さんの教えるスタイルが自分に合っていたこと、その教えに思い切って乗っかっていけたことはすべて幸運だった。

 一般社会でもそうだと思うけど、誰もが心のどこかに「がんばろう!」と思う気持ちはあるじゃない? でも、どうがんばっていいかがわからない。方向性があやふやだと“アバウトながむしゃら”になってしまうでしょ? 良い上司と出会って、自分が進むべき道を示してくれると、それに絞って、がむしゃらにいける。まあ、そういう出会いに恵まれなくても、自分で思いつくものを全部やって、そこから見つける方法ももちろんアリだけど。

 でも、よく考えたら、当時の僕は「足だけでメシを食える」というより「足でしかメシが食えなかった」というのが本当だったけどなぁ。

 古葉さんが声をかけてくれた時、オレが後々カープであれだけの実績を残す選手になると思っていたかって?

 どうなんだろう? わからんねぇ。

 あったとすれば、入団して最初に一度転向した外野手としては、(山本)浩二さん、ライトル、水谷さん(実雄)が盤石だったから芽はないということだろうね。そして、ショートなら三村さん(敏之)が衰え出してきたからうまくハマる、という考えはあったんじゃないかな。

 今、コーチの立場で、当時の僕のような選手がドラフトで入ってきたら、どういう指導するか?

 うーん。それも、わからん(笑)。

 ただ、西岡(剛/阪神)のようなヤンチャなタイプを教えるのは、比較的ラクだったよ。

 ロッテに入ってきたばかりの西岡は、身体能力はあったし、当時の僕なんかよりもはるかに上手さを持った選手だったけど、自分自身のことを理解していなかった。だから、結果がついてこなかったり、外からの情報とか刺激を受けるとガンガン揺れたりするわけ。

 でも、それは使い方を知らないだけだったから、注意すればいいだけ。

 逆に、何でもできて真面目な選手の方が難しい。今江(敏晃/ロッテ)やダイエーのコーチのときに教えた村松(有人)なんかがそうだったなぁ。どうやって直したらいいか悩んだよ。

 それと、ジーっと黙っている選手も難しい。うるさい選手、ヤンチャな選手は注意すれば反応があるからいいけど、静かな選手に「もっと元気だせよ」というのは本当に難しい。

 カープ時代にそういう真面目な人がいたか?
 いや、知らない。そんな周りに気を使う余裕なんてなかったよ。

■スイッチヒッター挑戦にみる「覚悟」

 大越基(現早鞆高監督)っていたでしょ。ダイエーのコーチ時代に教えていたんだけど、あいつはすごい足を持っていたね。オレより速かったよ。

 当時、スイッチを薦めたことがあって、最終的にはある人に「お前はスイッチになっても仕方がないだろう?」と言われて、結局実現しなかったけど、もし挑戦していたら人生変わったかもしれんね。

 昨年のオフに、菊池涼介(広島)も挑戦するような話が出ていたけど、すぐにやめてしまったよね。

 やめたのはいい。でも、なぜやるって言ったのか? なぜやめたのか? ということが大事よ。

 スイッチヒッターへ転向できれば、トータルで絶対的にプラスになるよね。左のほうが一塁に近いわけだから。僕の場合は右打席でも結構打っていたから、苦手をカバーするというよりは、もっと前向きな挑戦だったよね。

 でも、きっかけは単純だったのよ。古葉さんに「スイッチにするか?」と言われて「いいですよ」って。何も考えないで。正直なところ、返事したときは「プラスになるだろう」という考えすら実は何もなかった。

 そんなもんだって。あとで死ぬ思いをしたけどね(笑)。



 じゃ、なぜやめてしまうのか。そこまでがんばれないってことなんでしょ?

 僕の場合はスイッチ始めたのが20歳前。野球始めたのが9歳くらいとして、それまで10年間右打席だけでやってきたんだから、それと同じ数を1年で振ればいいと思ったわけ。

 だから、覚悟の問題ということになるんだけど。みんな、それまでやるのがしんどいのよ。

 オレの場合は、すでにプロとして一度、落伍したという考えだったから、迷わずがむしゃらにやれたというのはあるね。

 たとえて言うとね。
 右と左で同じように字を書けるようにならなくてはならない、という状況になったとしたら、どうするか?

 みんな、「書くしかない」と答えるでしょ? それが普通の考え方だよね。

 でも、オレだったら右腕切り落とすね。

 不適切な表現かもしれない。バカかもしれないけど、そのくらいの覚悟が必要ってことを言いたいんだ。

 最初は古葉さんに言われて、そのノリで「やります!」と始めた左打席だったけど、実際に初めて打席に入ったときは体が動かなかった。

 「何これ? どうすればいいんだ?」という感じ。ワケがわからない。スイングする以前に避けられないから、まず避ける練習から始めたんだもん。

 だから言うの。やればなんとかなるんだって。

 今の世の中って、失敗=命取りという考え方の方が多いでしょう? だから、リスクを回避して「やらない」ことを選択することがよくある。

 でも、覚悟を決めて挑むこと僕は必要だと思う。それが結果的に失敗になってしまったとしても、得るものは必ずあるよ。

 みんなそこまでやってないよな。

 自分が納得のいくところまでやったことは、絶対に無駄なことはないからね。僕はそう思うよ。


高橋 慶彦(たかはし・よしひこ)
1957年生まれ、北海道芦別市出身。4歳の時にスキーを指導していた父の異動により、東京に移り住む。城西高に進学し、3年夏に甲子園出場。これがきっかけで、その秋のドラフト3位で広島に指名され、入団。4年目の1978年に110試合出場し、ポジションを勝ち取り、「赤ヘル黄金期」の1番打者として大活躍する。1979年に達成した33試合連続安打は今もまだ破られることがない日本記録。村上龍が書いた小説『走れ!!タカハシ』のモデルとなったり、発売したレコードは野球選手としては異例の売上を記録したり、全国的な人気もあった。1989年オフにトレードでロッテへ、翌1990年オフに阪神へトレードで移籍し、1992年に引退。その後、ダイエーやロッテでコーチ、2軍監督を務め、村松有人、今江敏晃などを育てた。現在はテレビ新広島で解説者を務めている。


構成=キビタキビオ/1971年生まれ、東京都出身。野球のあらゆる数値を測りまくる「炎のストップウオッチャー」として活動中。元『野球小増』編集部員で取材経験も豊富。8月には『ザ・データマン〜スポーツの真実は数字にあり〜』(NHK-BS)に出演するなど、活躍の場を広げている。ツイッター/@kibitakibio

※来週は5月7日(水)に更新となります。ご了承ください。

記事タグ
この記事が気に入ったら
お願いします
本誌情報
雑誌最新刊 野球太郎No.32 2019ドラフト直前大特集号 好評発売中
おすすめ特集
2019ドラフト指名選手一覧
2019ドラフト特集
野球太郎ストーリーズ
野球の楽しみ方が変わる!雑誌「野球太郎」の情報サイト
週刊野球太郎会員の方はコチラ
ドコモ・ソフトバンク
ご利用の方
KDDI・auスマートパス
ご利用の方