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97歳でマウンドに上がった背番号18(後編)


▲現役時代の前川八郎さんの勇姿。

 前回に続いて、97歳の前川八郎さんに会いに行ったときの話です。 
 前川さんは今から75年以上前の、巨人軍草創期のメンバー。当時、チームメイトにして友人でもあった選手こそが、[伝説の名投手]といわれる沢村栄治です。その名前を知らないファンの方でも、今季=2012年、ソフトバンクの攝津正投手が受賞した沢村賞は知っていると思います。

 沢村賞とは、正式には沢村栄治賞。その名のとおり、戦前の巨人で大活躍しながら戦争の犠牲になった沢村栄治投手を記念し、その栄誉と功績を称えて設けられた特別賞。今季はソフトバンクの摂津正投手、2011年は楽天の田中将大投手、2010年は広島の前田健太投手と、その年に最もエースらしい成績を残した投手に授与されます。

 現役時代の沢村の活躍、もしくは名投手たる由縁。最もはっきりしたものは、ノーヒットノーランという記録でしょう。
 なにしろ1936年、沢村は日本のプロ野球で初めてこの快挙を成し遂げ、翌年には2度目の達成。さらに、2年間の兵役を終えて復帰し、球速も制球力も低下が目立ったにも関わらず(このこと自体が「戦争の犠牲」なのですが)、40年には3度目のノーヒットノーランをやってのけているんですから。

 東京ドームの外野席に立つコンクリートの支柱に、巨人の永久欠番が掲げられています。その中の14番が沢村の背番号なのですが、実は、前川さんが付けていた背番号は18。現在では杉内俊哉投手が付けているエースナンバーで、他球団でも“18”を付けるエースは多い。

 この“18”を巨人で初めて付けたのは、300投手のヴィクトル・スタルヒン。ただ、それは巨人しかプロ球団がない1935年までのことで、現在のNPBに連なる連盟加盟後の巨人では、前川さんが初代背番号18。
 もっとも、当時はまだエースナンバーという意味は備わっていなくて、ご本人によれば、「だいたい野手が一桁の番号、ピッチャーが二桁の番号」ということで、「たまたま順番で18」だったと。

 しかしながら、どうしても前川さんの“18”にエースナンバーを見出したくなるような逸話もあります。というのは、沢村にとって前川さんは5つ年上の先輩でもあっただけに、ピッチングを教わりにきたこともあったというのです。[名投手]=天賦の才、などと思っていた僕にとっては、かなり意外でした。

 前川さんにとって特に思い出深いのは、同時代のタイガースでスーパースターだった強打者、景浦将をどう抑えればいいのか、アドバイスを求められたときだったそうです。 「僕はね、景浦に打たれたことがなかった。それで沢村に言ったのは、第二ストライクまではインコースの高めにハーフスピードで投げる。景浦はお調子もんだから、好きなとこへ来たらいくらでも、考えずに打ってくる。で、打ったらすごいファウル。あの時分、われわれはよう言うとったんです。ファウルを打たせたら景浦は日本一だと」

 スピードガンが当時あれば、間違いなく150キロを表示したといわれる剛速球に、鋭く落ちるドロップ(カーブに近い変化球)を武器としていた沢村。それでも景浦を抑えきれないのに、軟投派だったという前川さんのほうが抑える方法を知っていて、しかも相手を翻弄していた。  抑えた方法について、前川さんは「ごまかしです」と言って、謙遜していました。しかし、剛速球がなくとも強打者を抑える術を会得していた、その能力の高さをかみしめると、エースナンバーの礎は初代の前川八郎投手、と思いたくなるのです。

 そして、18番にエースナンバー以上の意味を見出していたのは、インタビューに同席してもらった前川さんの息子、ひろ志さんです。
 そのときから数年前、前川さんが高熱を出して危険な状態になったときのこと。ひろ志さんは球団関係者に頼んで、背番号18が縫い付けられた巨人のユニフォームを作ってもらいました。それを病床の前川さんに着せると、途端に翌日から熱が下がり、快復したのだそうです。  ひろ志さんは言っていました。「巨人の18番の力かもしれない」と。

 僕自身、「18番の力」を感じ、目の当たりにしたのが、取材の日から約3週間後、2009年7月7日の東京ドーム。巨人軍創立75周年を記念した対横浜戦、前川さんによる始球式が行われたそのときです。
 巨人ナインと同じように身に付けた、第二次アメリカ遠征時の復刻ユニフォームには、背番号18。ゆっくりと歩を進めて、マウンドに上がると、取材時には曲がっていた腰がピッと伸びていました。投げられたボールはバウンドしながらも、捕手までしっかり届き、まったくといっていいほど、年齢を感じさせない勇姿でした。

 マウンドから降りて、原辰徳監督と握手したあと。前川さんは「本当はオーバーするぐらい投げたかったですな」と言って笑い、「69年ぶりのマウンドでいい冥土の土産になりました。先に冥土へ行っている先輩たちへ自慢してやりたい」と話したそうです。(※前川八郎さんのインタビューは11月21日発売の文庫に収録されています)

 次回は、前川さんと同じく球界黎明期に活躍した、浅岡三郎さん(元東京セネタースほか)のことを書きたいと思います。


▲97歳で始球式を務めた前川八郎さん。

写真提供/前川八郎  撮影/持木秀仁
(禁無断転載)

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会、記事を執筆してきた。10月5日発売の『野球太郎』では、板東英二氏にインタビュー。11月下旬には、増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』が刊行される(廣済堂文庫)。ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント @yasuyuki_taka

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