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名物監督列伝〜石本秀一監督(広島商)。記者との二足のわらじで甲子園制覇後は阪神、広島の監督で尽力

文=落合初春

名物監督列伝〜石本秀一監督(広島商)。記者との二足のわらじで甲子園制覇後は阪神、広島の監督で尽力
 高校野球界の名物監督を紹介する本企画。今回は近代野球を切り拓いた第一人者であり、広島商の伝統を築いた石本秀一監督をクローズアップしたい。

「日本刀の刃渡り」の怪


 平成になって甲子園にやってくるペースは落ちたものの、大正から今日まで強豪と知られる広島商。これまで春夏通算7度の全国制覇を達成しており、機動力を生かした「広商野球」は全国的に有名なフレーズになっている。

 なかでも伝説的なのは、戦前に4度の甲子園制覇に導いた石本秀一監督だ。猛練習で選手を鍛え上げ、精神野球の象徴である「日本刀の刃渡り」は長く高校野球ファンの間で語り草になってきた。

 石本監督の第一の凄みは機動力野球の本格導入だ。それまで黎明期の高校野球は大エースありきの大味な野球だった。ムラをなくすためにはどうすればいいのか。それを突き詰めたのが、バントと走塁を駆使した戦術の数々だ。

 もちろん猛練習もあっただろう。しかし、1920年代から30年代当時の強豪校には掃いて捨てるほどのスパルタエピソードが残っている。広島商の猛練習というのは一種のブランディングだったのではないだろうか。

 有名な「日本刀の刃渡り」も実は2度の全国制覇を成し遂げたのちの出来事。1930年、鶴岡一人(元南海)らが在籍した代が最初だった。

 それも石本監督が「やってみろ!」と強要したわけではない。武道家の師範に呼吸法を学んだ後に実践したという。それも師範は「ささ、監督からどうぞ」と来たものだから、石本も肝を冷やしたそうだ。

 石本は当時、昼間は大阪毎日新聞の広島支局の記者でキレモノだった。「広商はここまでやるんだ」ということを喧伝するには最高の題材になった。ちなみに鶴岡一人はこのときの真剣は研がれていなかったと証言している。

 いずれにしても「日本刀の刃渡り」は日本中に知れ渡ることになった。トレードマークも忘れていなかった。ノック時には必ず首から白いタオルをかけて汗を拭う。「白手拭いの石本」は大正から昭和にかけての高校野球の名物だった。

 実は選手の体調に気を配ることも忘れなかった。1931年夏には夏春連覇の御褒美として、チームのアメリカ遠征が実現したが、予想以上の過密日程になると、「俺が投げる!」と発奮。33歳で若かったこともあるが、大学に進む選手の肩を労わったといわれている。

伝統の一戦を確立


 その後、新聞記者としてスポーツ報道の一線に立った石本だが、実績を買われ、1936年に阪神の2代目監督に就任する。

 ここでのブランディングもすごい。当時、巨人の大エースだった沢村栄治を倒すと宣言し、「打倒巨人」を掲げたのだ。それも今度は機動力野球ではない。プロ野球の醍醐味であるパワーを存分に生かした「ダイナマイト打線」を構築し、阪神の看板にしたのだった。

 もちろん、精神野球も忘れない。猛練習を課し、ときには殴り合いながら野武士軍団を鍛えていった。ゴリゴリの“猛虎魂”を生み出していった。

 今も語り継がれるエピソードは石本の話題提供力の賜物だ。さすがは元新聞記者。「沢村倒す!」「阪神、千本ノック」など、今のスポーツ新聞でも十分に通用するような見出しだ。

広島でファンクラブ文化を作る


 その後も数々の球団で監督を務め、1950年には広島の初代監督に就任した。ここでの石本の活躍は今のカープの存亡に大きく影響している。

 本来ならば、野球を鍛えるべき役職だが、とにかく球団が貧乏だったため、練習や試合そっちのけで金策に走り回った。

 「郷土の誇り」を前面に打ち出し、小額の後援会制度を考案。毎日のように宴席を回り、演説を打ち、地域球団の必要性と援助を訴えた。そして、広島にはカープ熱が生まれ、ファンは樽募金を始めた。「地域密着」の祖でもあるのだ。

 高校野球監督からプロ野球監督へ。これぞ野球界を代表する名物監督。2度と現れることのない傑物だろう。

文=落合初春(おちあい・もとはる)

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