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《市立尼崎・竹本修監督の男泣き》いいチーム、いいやつらと甲子園にいきたい


悲願成就の2016年夏


 8年ぶりの公立校同士のファイナルとなった今夏の兵庫大会。しびれるような接戦を1点差で制し、兵庫の頂点に駆け上がったのは、「イチアマ」の略称で地元民に親しまれている市立尼崎だった。

 甲子園出場は1983年夏以来、実に33年ぶり、2回目。

 優勝監督インタビューでは、受け答えもままならないほどに号泣する竹本修監督の姿があった。

 イチアマの指揮官として迎えた通算14回目の夏。悲願が成就した瞬間だった。

勝てそうで勝ちきれない日々


 竹本監督は1987年から1990年にかけ、投手として阪急、オリックスに在籍した元プロ野球選手。現役引退後は球団職員を4年間務めた後、1994年夏、兵庫県教員採用試験に合格。保健体育教諭に転身した。

 武庫工(現・武庫荘総合)で4年間教壇に立った後、19999年に市立尼崎に転任し、部長に就任。体育科が新設された2000年秋にイチアマの監督となった。

 と同時に、この元プロ指導者のパイオニアには大きな期待が寄せられた。竹本監督が回想する。

「元プロ監督なんだから甲子園にすぐに連れて行ってくれるはず。元プロ監督だから選手たちもぐんぐん上達するはず。野球に関することならなんでもできる、魔法使いのように思われているなと感じました。正直、プレッシャーはものすごくありました」

 監督として迎えた2回目の夏、イチアマは金刃憲人(現・楽天)を擁し、兵庫大会準決勝に進出する。神戸国際大付を相手に5点リードで最終回を迎えるも、9回裏に一挙6点を奪われる痛恨の逆転サヨナラ敗戦。後に竹本監督はこのゲームを振り返り「伝令を出せばよかったのに、出す余裕がぼく自身になかった。選手に悪いことをした……」と悔いた。

 悪夢の夏から2年後の2004年、イチアマは再び決勝進出を果たす。甲子園出場まであと1勝。しかし報徳学園に8対12で敗れ、準優勝に終わってしまう。

 とはいえ、竹本監督誕生後、チームはベスト8、ベスト4、準優勝と着実に成績を上げていた。「イチアマの甲子園出場はすぐそこまで来ている」。そんな確信に近い期待を抱いていた地元の高校野球ファンは多かった。

 ところが2005年以降も、上位進出は果たすものの勝ちきれない年が続く。2005年はベスト4、2006、2007年はベスト8。2008年から2011年にかけては5回戦進出が最高成績で2回戦敗退も二度。姫路工、加古川北といった公立勢が激戦区兵庫を制する一方で、イチアマの甲子園出場への地元民の期待値は徐々にトーンダウンしていった感があった。

「金刃がいた2002年に一気に甲子園に行っとかんとあかんかったんや」

 市立尼崎からわずか数キロの地に住んでいる筆者。地元の高校野球ファンのそんなフレーズを耳にしたのは一度や二度ではなかった。

言葉力を持つ指導者


 就任当初から期待された甲子園出場はなかなか叶わなかったものの「竹本監督のもとで高校野球がしたい!」「イチアマに行きたい!」という球児の声は、筆者の耳にも数多く届いた。

 息子がイチアマ野球部に在籍した経験を持つ保護者に話を聞くと、必ずと言っていいほど「竹本監督の日々の指導によって、息子が人間的に成長しているのが明らかにわかる」といった答えが返ってくる。

「竹本監督の日々のミーティングでの言葉が選手たちにものすごく響くみたい」

 そんな声も頻繁に耳に入ってくる。そんな評判がイチアマ野球部を志す球児をさらに後押しする。

 2005年暮れ、当時立命館大3年生だった金刃憲人を取材する機会に恵まれたが、彼は「高校時代は毎日が必死だったけどものすごく充実していた。あの日々なくして今の自分はない」と言い切った後、次のように続けた。

「毎日、練習の最後に竹本監督がいろんな話をしてくれるんです。『今の一瞬一瞬を生きろ』『今やってることが社会に出た時につながる』といった言葉や、監督の過去の失敗談なんかも。そんな毎日のなかで野球に対しての考え方が明らかに変わりました。全幅の信頼をおける監督だった。大事なものをめいっぱい詰め込んだ高校3年間でした」


元プロならではの特権とは?


 竹本監督は元プロ指導者ならではの大きなアドバンテージを次のように語ってくれたことがあった。

「プロ、つまり最高峰の世界で成功した人や失敗した人の考え方や取り組み方をしっかりと目撃したことができたという事実です。やはり人間、自分の目で実際に見た情報が一番強い。ぼく自身はプロ野球選手としては間違いなく失敗者であり、敗者。でもプロの世界を垣間見た事実は指導者となった今の自分にとっての大きな財産です。プロの世界で目撃し、感じたことを選手たちの引き出しに加えてあげられる。これはプロ出身指導者の大いなる特権だと思っています」

 2012年春からの2年間は部長を務めた竹本監督。甲子園に一度でも出場していればこの2年間の部長生活はおそらくなかったのではないかと筆者は推測するが、竹本監督は「自分には必要な時間だった」と語った。

「野球を少し離れた距離から見れたことが新たな考え方や、発想を呼び起こすことにつながり、指導者として変わることができた。あの2年があったからこそ、今の自分があると思っています」

 2年前、監督に復帰して間もない頃、竹本監督に「今後の夢」を訊ねたことがあった。返答は次のようなものだった。

「50歳を過ぎても選手とともに一緒に笑って、本気で泣ける。許されるものなら、いつまでも高校野球の監督をしていたい。そしてずっと夢・目標のまま、ここまできてるわけですから、なんとかして叶えたいですね、甲子園。いいチームで、いいやつらと甲子園にいきたいものです」

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 この夏、イチアマ戦士は兵庫大会で披露し続けた粘り強い戦いを聖地・甲子園でも見せつけた。しかし、延長10回の末、八戸学院光星に4対5で惜敗。1回戦で姿を消し、33年ぶりの勝利は成らなかった。

 試合後、竹本修監督は目に涙を浮かべながら言った。

「昨年の秋は2回戦で負けたのに本当に食らいつくチームになった。子どもたちが成長した姿を甲子園で見れて嬉しい。素晴らしい経験ができて感動した。よく頑張った選手たちを誇りに思う。野球と甲子園に感謝です」

 悲願成就とともに名将ロードを本格的に歩み始めた竹本修監督。その未来にさらなる注目が集まる。


文=服部健太郎(はっとり・けんたろう)

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