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ラッキーゾーン撤収を物ともせず、「5打席連続敬遠」で大きく成長〜松井秀喜と甲子園【高校野球100年物語】

【この記事の読みどころ】
・甲子園のベンチに女性が入れるようになったのは約20年前
・社会問題にも発展した「5打席連続敬遠」
・木内幸男監督、前田三夫監督……名将の存在が目立ち始める!

〈No.077/印象に残った勝負〉
「奇跡のバックホーム」采配の妙が生んだ名勝負〜1996年夏・松山商対熊本工


 1996年夏の甲子園決勝戦は、松山商と熊本工という伝統校同士の対決となった。試合は1点を追いかける熊本工が9回裏二死走者なしの状態から起死回生のソロホームランで同点に追いつき、延長戦に突入。そして運命の10回裏を迎える。

 10回裏、熊本工は先頭打者が二塁打で出塁。松山商は投手と右翼手を交代させるが、送りバントと敬遠で1死満塁のピンチを迎える。ここで松山商は、右翼手に背番号9の矢野勝嗣に交代する。

 プレー再開後、熊本工の3番・本多大介はその代わったライトに大飛球を放つ。甲子園の“浜風”に押し戻される形で矢野のグラブへ。スタンドまでは届かずとも、犠牲フライには十分な飛距離だった。タッチアップする三塁ランナー。ここで矢野は、普段の練習ではしたことがない、というダイレクト返球を試みると、打球を押し戻した浜風が今度は「追い風」となり、一気に加速して捕手のミットにおさまりタッチアウト。のちに「奇跡のバックホーム」と呼ばれるプレーが生まれた瞬間だった。

 ピンチを切り抜けた松山商は11回表、奇跡のバックホームを演じた矢野が先頭打者で出塁。その勢いのまま3点を奪い、試合を決めた。こうして、のちに「平成の名勝負」とうたわれるドラマに満ちた一戦が幕を閉じた。

〈No.078/泣ける話〉
史上初の「甲子園ベンチ入り女子マネ」誕生秘話


 1996年、甲子園のみならず高校野球界にとって画期的な改革が起きた。16人の選手登録(当時)の他に記録の専任者がベンチ入りできるようになったのだ。この新制度によって女子部員でもベンチ入りが認められ、同年の甲子園では9校の女子マネージャーが試合に出場する選手に交じり、ベンチでスコアをつけた。

 その中で、最初に登場したのが東筑の女子マネージャー・三井由佳子さん。だが、本来は三井さんがベンチ入りする予定はなかった。福岡大会では3年男子部員が記録員としてベンチ入りしており、甲子園でも同じようにその男子部員が担当することになっていたからだ。

 ところが、その男子部員が「福岡大会から3年生でベンチ入りしていないのは女子マネージャーの三井だけ。甲子園では三井がベンチに入ってほしい」と自ら身を引き、三井さんがベンチ入りすることに。そんな男子部員の想いを受け、ただただ涙したという。

〈No.079/印象に残った選手〉
バットを振らずして伝説になった「怪物」松井秀喜


 甲子園通算記録は春夏合わせて4本塁打15打点、打率.344。並の球児であればもちろん立派な数字ではあるものの、「怪物」「ゴジラ」の異名からすれば少し物足りないと感じるかもしれない。それが、のちに巨人の4番、メジャーリーグでも活躍する松井秀喜が星稜時代に残した数字だ。

 だが、松井の記録には数字以上の価値があった。その象徴が、1992年夏、星稜対明徳義塾における「5打席連続敬遠」だ。「高校球児の中に1人だけプロが混じっていた」と、その実力がいかに頭抜けたモノだったかを評したのは、敬遠の指示を出した明徳義塾の馬淵史郎監督。松井も後年、敬遠した相手投手である河野和洋氏と再会した際、「僕を全国区にしてくれてありがとう」という印象深いコメントを残している。

イラスト:横山英史

 いずれにせよ、過去、幾人もの大打者たちがバットを振ることで栄誉を勝ち取ってきた甲子園史に、松井はバットを振らずに名を刻んだ。それこそが、松井の「怪物」たる証明であるだろう。

〈No.080/印象に残った監督〉
「のびのび」から「マジック」へ。オレだ!! 木内だ!!


 県立の取手二、私立の常総学院、2つの高校で栄誉を勝ち取ったのが、名将・木内幸男監督だ。

 取手二時代のハイライトは、何といってもKKコンビを擁したPL学園を延長戦の末に倒して日本一に輝いた1984年だろう。緻密なPL野球に対して、茨城なまりの名物キャラクターが繰り出す奔放・豪快な野球は「のびのび木内野球」と称された。

 常総学院に移ってからはゲームの流れを読み切った予測不能の采配が「木内マジック」と呼ばれ、2度の全国制覇を達成。教え子から何人もプロ選手を輩出するなど、甲子園史屈指の名監督として讃えられるほか、『オレだ!!木内だ!!』などの著作でも話題を呼び、名物監督して甲子園ファンから愛された監督だった。

〈No.081/知られざる球場秘話〉
甲子園名物・ラッキーゾーンがなくなってわかったこと


 甲子園球場において、かつてシンボルと称されたのが「ラッキーソーン」だ。1947年、甲子園を本拠地とする阪神タイガースの本塁打増を目的として設置されると、高校野球においても球児のパワーアップと連動するようにホームランを増やす一助となった。

 そんなラッキーゾーンが撤去されたのが1991年12月5日のこと。その後、甲子園球場で最初の公式戦となったのが1992年のセンバツだった。プロよりも高校生こそラッキーゾーン撤去の影響が如実に出るだろう、という予想通り、この大会での本塁打数は前回大会の半数以下に激減。そんな中、大会初戦に登場して2打席連続本塁打を放ち、2回戦では2試合連続本塁打を放った人物こそ星稜の松井秀喜だった。ラッキーゾーンの撤去が「怪物」のスゴさをより明確にしたのは間違いない。

〈No.082/時代を彩った高校〉
前田三夫がつくりあげた「東の横綱」帝京


 各地域の戦力均衡化が進み、戦国時代となった1980年代後半以降の高校野球。その中で、確かな存在感を放ったのが帝京だった。1989年夏に初の全国制覇を達成すると、1992年春、1995年夏にも優勝の栄冠を勝ち取った。そんな「東の横綱」を育てあげたのが熱血漢、前田三夫監督だ。

 1972年、22歳の若さで監督に就任すると、「俺が甲子園に連れて行ってやる!」と宣言。はじめは失笑されることもあったが、選手が次々に逃げ出すほどの猛練習で鍛え上げ、1978年春に甲子園初出場。その後も、「三合飯」と呼ばれる「食べるトレーニング」など、周囲からの批判にもひるむことなくスパルタ指導を続けた結果、甲子園常連校にまでのぼりつめることができたのだ。

 一時、指導法や戦術が物議を醸したが、前田監督に非があった部分は認め、反省したり、その後は高校生の変化とともに指導法に変化をつけていったりと柔軟に対応していった結果、大きな低迷期はなく、現在に至る。前田監督の甲子園通算勝利数は51勝(23敗)で歴代3位タイ。帝京が「東の横綱」と呼ばれる限り、今後もその数字を伸ばしてくるに違いない。


〈No.083/世相・人〉
高校野球の光と影の象徴――特待生問題


 1990年、ある通達が高野連から全国の加盟校に発せられた。それは日本学生野球憲章で禁じられている「スポーツ特待生」について、実施している学校は禁止するように、という内容だった。だが、当時は特に重要視されることなく、世間やマスコミでも騒がれることはなかった。2005年にも同様の通達が高野連から出されたが反応は変わらず。結果として2007年に「特待生問題」として高校球界を震撼させることになる。

 プロ野球・西武ライオンズによる裏金疑惑に端を発し、入学金や授業料などが免除される球児の是非が問われた「特待生問題」。越境入学までして野球強豪校(もしくは強豪校を目指す新興校)に入ろうとする「野球留学」の問題とも絡み、世間からのバッシングも大きかった。高野連が全国調査を行うと、全国で約380校、8000人近い特待生の存在が明らかに。有識者会議を設置して検証を行なうなど、社会的な大問題にまで発展した。

 だが、学業や経済的な理由から「特待生」の制度そのものは社会に必要不可欠だ。その中で明確な線引きなどできるはずもなく、今後も高校野球が抱え、議論し続けていかなければならない問題であることは間違いない。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」、「AllAbout News Dig」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。近著に『福島のおきて』(泰文堂)。Twitterアカウントは@oguman1977(https://twitter.com/oguman1977)

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