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監督からの愛情を選手が受け入れて絆が結ばれる 元横浜高校野球部・渡辺元智監督を思う【後編】

 高校野球史に多くの功績を残した名将・渡辺元智監督。

 根性野球で厳しくスパルタ指導していた時代、選手たちは監督に対してどのような思いだったのか。

 教え子の1人で、後にプロ野球の道に進んだ西山茂氏に話を聞くことができた。


監督の思いが選手によって受け継がれていく


「俺が戻ってくるまで、ここで打っておけ!」

 渡辺元智監督は、2年生だった西山氏にこう言い残して立ち去った。

 1973年春のセンバツ出場を決めた横浜高校。大会前に練習試合を重ねていたなかで、攻撃的な2番を任された西山氏は、バッティングの調子を落としていた。

 ティーバッティングを始めたのは、全体練習が終わった午後7時。1年生にトスを上げてもらい、懸命にバットを振る。夕食の時間はいつの間にか過ぎ、1年生は何人も入れ替わった。

 手の皮がむけ、痛みでバットが握れなくなった西山氏。無理やり握るために、バットと手を紐で結んで固定させ、再び打ち続けた。

 だが、日付が変わっても渡辺監督は戻って来なかった。

 今の時代なら、居残りの“しごき”として、非難の対象になるのかも知れない。しかし、西山氏は自らの不調を克服するために納得し懸命に打ち続けていた。

 トスを上げていた1年生部員たちは、西山氏を誇らしい先輩として見ていたであろう。

「ここまでしないと横浜高校のレギュラーを取れないのか。俺も試合に出てヒットを打ってやる!」

 西山氏が打ち続ける姿を見て、奮い立ったに違いない。伝統校の強さの秘密は、こんなところにも隠されている。「魂」が先輩から後輩に受け継がれていくから、伝統校は強い。


監督の期待に応え、自ら結果を残す


 結局、渡辺監督が戻ってきたのは午前2時過ぎ。

 冷え切った傷だらけの西山氏の手には、温かいホットドッグが手渡された。西山氏はその時、監督からかけてもらった言葉を覚えていないという。しかし、「ホットドッグをもらったことが、本当に嬉しかった」と振り返る。

 渡辺監督は西山氏が何事にも真剣に取り組み、厳しさに耐えうる精神力と忍耐力を備えた選手だということをわかって練習を続けさせたに違いない。監督の期待に応えた西山氏は甲子園でも結果を残し、憧れのプロの世界に進んだ。


選手への愛情とそれを受け入れる気持ち


 西山氏は、横浜大洋ホエールズ(現DeNA)と契約を交わした日、渡辺監督に立会人をお願いしたという。

「渡辺監督は、自分を野球の道に導いてくれた恩人。尊敬しているし、感謝もしている。野球人として最も大切な日に、そばにいてほしい人だった」

 こう語る西山氏の目は、少し潤み、純粋そのもので、甲子園を目指して白球を追った日々を懐かしんでいるようだった。

 西山氏が抱く渡辺監督への想いの中には、スパルタ指導や鉄拳制裁といった言葉は見つからない。

 むしろ、監督が選手に持つ愛情や、反対に選手が監督の愛情を受け入れる気持ち、その太い絆は当時のまま、渡辺監督と西山氏の間にしっかりとつながっているように見えた。


語り手=西山茂氏
横浜高校のセンバツ初出場初優勝時のメンバー。三菱自動車川崎を経て、1978年に横浜大洋ホエールズに入団。外野手として活躍。1983年に現役を引退。横浜金沢リトルシニア時代(中学)の秋山翔吾(西武)にコーチとしてバッティング指導した経験もある。


文=まろ麻呂
企業コンサルタントに携わった経験を活かし、子供のころから愛してやまない野球を、鋭い視点と深い洞察力で見つめる。「野球をよりわかりやすく、より面白く観るには!」をモットーに、日々書き綴っている。

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