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大沢親分が信頼した男! 日本ハム最後の20勝投手「工藤幹夫伝説」を振り返る


 東北が生んだ“知る人ぞ知る野球人”のひとり、元日本ハム投手、工藤幹夫氏が5月13日、秋田市内の病院で亡くなった。55歳の若さだった。

 工藤氏は秋田県出身。本荘高校から1978年のドラフト2位で日本ハムに入団。ハイライトは、何といっても1982年に20勝を挙げ、最多勝、最高勝率、ベストナインに輝いたことだろう。

 だが、この年以外はペナントレースで目立った成績は残していない。そのため、熱心な日本ハムファン以外は、今回の訃報で初めてその名を知った、という人もいるかもしれない。

 なぜ、1シーズンだけの輝きだったのか。工藤投手の一瞬の輝きの裏にあった背景を振り返ってみたい。

シーズン2勝投手が日本シリーズで2勝


 もともとはアンダースローの投手だった工藤氏。だが、プロ入り後の1981年、サイドスローに転向したことが大きな転機となった。この年、イースタン・リーグで13勝4敗1セーブという好成績を残し(※ファーム最多勝)、シーズン途中から1軍に昇格。ペナントレースで2勝を挙げた。

 同年、日本ハムはパ・リーグを制して日本シリーズに進出。2勝4敗で巨人に敗れてしまうが、その2勝はいずれも救援した工藤氏についたもの。翌シーズンにブレイクする予兆ともいえた。


大沢親分の奇襲大作戦


 むかえた1982年、工藤氏は開幕から絶好調。前期10勝3敗、後期10勝1敗で20勝を達成した。しかも、9月8日に右手小指を骨折して離脱したため、シーズン半ばでの20勝という、価値あるものだった。

 ところが、骨折から1カ月後の10月9日、西武とのプレーオフ第1戦で、工藤氏がまさかの先発登板。もちろん、ケガはまだ治っていなかった。

 なぜ、そんな無理をさせたのか。それは、当時の日本ハム・大沢啓二監督の「骨折の工藤は投げるはずがない」という相手予想を踏まえた上での奇襲作戦だった。

 結果的に、プレーオフ第1戦は黒星で奇襲失敗。工藤氏は期待に応えて6回終了まで無失点の好投を見せたが、後続ピッチャーが打たれてしまったのだ。

 もっとも、奇襲はこれで終わらなかった。“大沢親分”はプレーオフ第3戦でも工藤氏を先発起用し、今度は完投で見事に勝利投手となったのだ。だが、日本ハムは他の試合に勝つことができず、1勝3敗で日本シリーズ進出は叶わなかった。

1982年の工藤幹夫と落合博満


 大沢監督の奇襲作戦は、「プレーオフ敗退」という形で失敗。それだけでなく、工藤氏のその後の野球人生をも狂わせてしまう。骨折が治り切らないうちに投げたことで骨が変形。その結果、投球フォームのバランスを崩し、右肩を故障するという悪循環を招いてしまったのだ。

 1983年は8勝したものの、それ以降は右肩の故障が響き、投手の道を断念。野手転向を目指したが、1軍出場は叶わず、1988年限りで現役を引退。地元に戻ってスポーツ用品店を経営する傍ら、社会人野球チーム「由利本荘ベースボールクラブ(BC)」の指導にあたっていた。そして、今回の訃報となってしまったわけだ。

 さて、話を1982年に戻そう。実はこの年、もうひとりの秋田県出身者が球界で大記録を達成している。その人物こそ、三冠王を達成した落合博満(当時ロッテ)だ。そのため、同じ秋田出身者としても落合の方が目立つ形となり、結果的に工藤氏の20勝がいまひとつ目立たないものとなってしまった。

 ちなみに、1982年の工藤氏以降、日本ハムでは20勝投手は現れていない。つまり、次に日本ハムで20勝投手が生まれれば、必然的に工藤氏の名前にスポットライトが当たることを意味している。

 その20勝投手の誕生がいつなのか、大谷翔平なのか有原航平なのか、それとも違う投手なのかはわからない。だが、ぜひとも、工藤氏の名前と偉業が今一度掘り起こされる日が来ることを期待したい。


文=オグマナオト(おぐま・なおと)

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