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「もうひとつのドラフト―反抗児、長坂秀樹のたぐり寄せられなかった夢―」 第2回

▲[写真提供:長坂秀樹]

 夢見心地で球場を後にした長坂だったが、しかし、寮に戻り荷物をまとめた瞬間、現実に引き戻された。見送ってくれた編成部長に「現実」を吐露した。

 アメリカに渡って2年目の2003年、長坂は帰国後、巨人のトライアウトを受験していた。そこで待っていたのは厳しい現実だった。長坂が砂をかけるようにして去って行った東海大OBのスカウトに一喝された。

「大学に散々迷惑かけといて、何しに来たんだ!」

 その通りだった。長坂にも言い分があるにせよ、大学野球部を飛び出すようにして途中で辞めたことは事実であった。付属校に「野球留学」し、そのまま進学した経歴を考えれば、長坂が大学選手権のマウンドに立つまでの道程には、多くの大人の手がかかっていたことは確かだ。それは彼に実力があったからこそ大人たちが敷いてくれたレールだったのだが、長坂はそのレールから自ら脱線した。野球界も所詮はひとつの「世間」である。長坂はその「世間」の掟を破った。

 長坂は、正直に、自分の球歴を編成部長に話した。自分のわがままで退部し、それ以来、監督に挨拶にも行っていないこと、それがゆえに巨人のトライアウトで門前払いを食らわされたこと。だから、それがクリアにならないことには、ソフトバンク球団にも、大学にも迷惑をかけてしまうこと。

 編成部長は黙ってそれを聞き、一拍おいてからゆっくりと口を開いた。

「何も気にする必要はないよ、長坂君。大学の監督さんにはこちらから電話して話をしておくから。横浜に戻ったら挨拶に行きなさい」

 長坂は、ボストンバッグ片手に東へ向かう新幹線に乗った。手渡された封筒だけは両手に大事に抱えて。その封筒には「調査書」が入っていた。

 退部後も大学には在籍していたが、野球部のグラウンドに足を運ぶのは実に7年ぶりだった。この男には珍しく不安が全身を襲った。

「やっぱり自分の身勝手で退部をしたのはわかります。自分にも言い分はあるんですけど、当時の生意気な言動や行動を振り返ると、監督さんにも迷惑をかけてたな、ってのは自分でもわかるんですよ。同級生もコーチとして残っていましたしね。後ろめたさもあって、本当にドキドキしました。プレー中のドキドキは、期待や興奮が混じっているでしょ。そうじゃないんです。不安そのものでした」

 野球部の寮で待っていたのは2つの笑顔だった。

「ずっと心配してたんだぞ。あの頃のお前はホント、生意気だったからなー」

 その指導に従わず、選手起用にまで口を挟んだ長坂を、伊藤栄治監督は責めることなく迎え入れた。その横には、長坂の「あの頃」を知る元同僚がいたずらっぽく笑っていた。

 「門前払い」だったと思っていた巨人のトライアウトだったが、実はそうではなかった。長坂の受験を聞きつけた伊藤が、球団に電話を入れてくれていたのだ。途中でチームを辞めた選手の不義理を次の進路を阻むことでお返しする指導者は多いと聞く。むしろ「体育会」の中ではそれが常識でさえある。しかし、伊藤は長坂の不義理を巨人に告げ口するようなマネはしなかった。

「あの投手がいたからこそ大学選手権へ進めたんです」

 「俺は俺」。他人をかえりみることなく自分の道だけを見ていた長坂が初めて、「人の支え」に気づいた瞬間だった。あくまで伊藤の懐は深かった。鬼監督にしか見えなかった伊藤の言葉が、この時ばかりは心に沁みていった。

「あれからも、どうしてるのかって心配してたんだ。いつだっけな、お前の事が新聞に出てるのを見て、野球続けているんだって知って嬉しかったよ。でもな、ちゃんと挨拶はせにゃいかんぞ」

 どのくらい頭を下げていただろう。しばらく伊藤の顔をみることができなかった。頭を上げるよう促した伊藤は、腕白坊主を諭すようにこう言った。

「お前は途中で辞めてしまった、って言っているけど、これからは胸を張って東海大学野球部OBだって名乗れ。お前も含めて当時のみんなの頑張りがあったから、神宮でも活躍できたんだ。俺が許す」

 長坂は「あの頃」を思い出していた。

 野球をしたくて入った大学で、練習もろくにさせてもらえず、雑用ばかりさせられる仲間の待遇に我慢がならなかった。彼らだって厳しいセレクションを潜り抜けてきたエリートだ。それなのに、せっかく大学まできて授業にもろくに出られず、挙げ愚の果ては草むしり。主力でVIP待遇の自分のことよりも、同級生に対する不条理な仕打ちに彼の正義感は沈黙を許さなかった。あの時は、確かにそれが正義感だった。

 しかし、それも長坂のひとりよがりに過ぎなかった。伊藤がいう「みんな」は、あの頃、草むしりをしていたチームメイトも含めてのことだと、ようやくわかった。誰かが草むしりをせねば練習もできない。名門大学といえども卒業後はほとんどの選手が競技から離れる。一般社会に出れば、ホームランバッターもベンチウォーマーもただの“一年坊主”に逆戻りだ。伊藤は、その時に一番大事なものを授けようと主力にもベンチ入りできない選手にも接していたのだ。あの頃の長坂は、結局はフィールドしか見ていなかった。草むしりをしていたチームメイトも、確かに「野球をしていた」ことが今になってわかった。彼らの存在がなければ、大学選手権準優勝もなかったのだ。
▲東海大時代[写真提供:長坂秀樹]

 長坂の首が再び垂れた。人間・長坂秀樹が少し実った瞬間だった。大学を出た後すぐ、ソフトバンク球団に電話を入れ、礼を言った。

 その後、もう1球団、長坂に声をかけた球団があった。これにも彼は応じた。プロという言葉が日に日に現実のものとして近づいてきていた。

「一度、来て投げてくれってことなんで、行ったんですよ、新幹線乗って。で、トライアウトの前日ですね、たまたまアメリカでやってた時のエージェントがニューヨークから来てたんで、その人も一緒に行っていいですかって聞いたら、それだけで、電話口で怒鳴られたんですよ。『なにがエージェントだ! 150キロ投げるくらいで思いあがるなよ!』って」

 アメリカでプロキャリアを始めた長坂にとって、エージェントが契約をまとめるのは当たり前のことであった。しかし、当時、日本ではプロ野球選手と言えども、「社員」であり、会社に雇われ、給料をもらう存在なのだという考え方が主流であった。長坂の何気ない行動は、日本球界で長らく生きてきた指導者にとっては生意気この上ない行動に映った。

 この言葉に、自ら「一言多い」性格が頭をもたげた。

「ハァ? 何も勘違いなんかしてないし、思いあがってもいませんよ。失礼ですが、勘違いしているのはあなたではないですか? 来てくれって言うから、わざわざ来たのに、その言い草はないでしょう」

 話はそこで終わった。当日、グラウンドに長坂の姿はなかった。

「せっかく来たんで、名物の手羽先食って、1杯飲んで帰りました」

 運命のドラフトはこうしている間にも近づいていった。

(次週へ続く)

■ライター・プロフィール
阿佐智(あさ・さとし)/1970年生まれ。世界放浪と野球観戦を生業とするライター。「週刊ベースボール」、「読む野球」、「スポーツナビ」などに寄稿。野球記事以外の仕事も希望しているが、なぜかお声がかからない。一発当てようと、現在出版のあてのない新刊を執筆中。ブログ「阿佐智のアサスポ・ワールドベースボール」(http://www.plus-blog.sportsnavi.com/gr009041)

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