多村が本格デビューを果たしたのは2000年。23歳で7本塁打を放ち、球界にその名を轟かせると、2004年には40本塁打、翌2005年にも31本塁打を記録。打ってよし、守ってよし、走ってよしのバイリティあふれるプレーを見せていた。
この時期も細かいケガは多かった。極めつけは2005年6月、高速道路での事故だ。愛車が雨でスリップし、激しくスピン。側壁に衝突し、左顔面と左肩を強打した。事故の瞬間は「死んだ」と思ったらしい。
意外にも頑丈さを見せた多村だが、この頃、実は「5ツールプレーヤー」ならぬ「6ツールプレーヤー」を自称。2004年に背番号を「6」に変更したこともあるだろうが、6つめのツールはなんと「ファッション」。
球界のオシャレ番長を目指すと意気込んでいたが、プログレすぎるファッションは時代の遥か先を行っていたようで、小市民には理解されなかった。
2006年の春先には第1回WBCのメンバーに選出。多村の怒涛の海外進出がはじまった。
2006年のWBCに多村は全試合出場。季節の変わり目やインフルエンザの流行もなんのその、3本塁打9打点でチーム2冠に輝いた。
この大会を通じて多村にド肝を抜かれたのは決勝で戦ったキューバの選手たち。2014年に巨人入りしたキューバの英雄・セペダは日本でのデビュー戦で2006年の当時、多村からもらったバットを使用している。
のちにDeNAでチームメイトになったグリエルも「タムラサンはキューバの野球観を変えたレジェンド」と絶賛している。
キューバ野球界の憧れになった多村だが、その年の6月、本塁クロスプレーで肋骨を4本骨折。あえなくシーズンを棒に振り、オフにはソフトバンクに移籍した。
翌2007年の多村は違った。4度の肉離れの中、自己最多の132試合に出場。「痛みを我慢することを覚えた」と周囲から絶賛されていた。
しかし、2008年はまさかのアクシデント発生。守備中に長谷川勇也と激突し、右足腓骨骨折。わずか39試合出場に留まった。
それでもその後は寝違え、気管支炎、腰痛などを乗り越え、フル出場とはいかないものの、体が頑丈に進化。2009年に「6ツール」のファッションをメンタリティに変更した影響もあるのだろう。
2012年オフにトレードでDeNAに復帰してからは、出場機会が限定され、苦しい3年間を過ごした。
ケガがなかったら…。そう思わせるだけのプレーが、多村にはある。通算安打は1162本だが、数字以上にファンをワクワクさせ、ファンから寵愛を受ける存在。新天地・中日で全試合フルイニング出場を見てみたい!
文=落合初春(おちあい・もとはる)