熱戦が続く「高校野球100年」節目の甲子園大会。序盤戦を終え、大きな話題となったのが、甲子園通算最多勝利記録を持つ智辯和歌山の高嶋仁監督の勇退報道だ。
8月9日に迎えた1回戦は、津商(三重)に4−9で敗戦。1試合7失策と、智辯和歌山らしからぬ守備の乱れには、さすがの名将もお手上げ。これで2012年夏、2014年春に続いて、出場3大会連続で初戦敗退となってしまった。
そして、試合の翌日に勇退報道が出たものの、その時期はまちまち。それを受けて、高嶋仁監督は、一度3年前に「3年後に辞める」と学校側に伝えた事実は明かしたが、まだ具体的な話は進展していないという。
とはいっても、現在69歳という年齢を考えると、そう長い間、監督を続けるのは難しいのはたしか。高校野球ファンの間で有名なベンチ最前列での仁王立ちを見ることができなくなると思うと、残念でならない。ここで改めて、そんな功績を積み上げてきた高嶋監督の生き様を振り返ってみたい。
高嶋仁監督は、1946年、長崎県で生まれた。海星では外野手として2度の甲子園出場。日本体育大を卒業後、1970年に智辯学園のコーチとなり、1972年、監督に就任。1977年春には甲子園ベスト4入りを果たした。
1980年、兄弟校の智辯和歌山の監督に就任。就任当初は同好会的な野球部だったというが、強豪校との差を肌で感じさせることで選手に奮起を促す。すると、なんと就任5年後の1985年春に甲子園初出場を成し遂げたのだ。
ただ、甲子園初勝利はそこからさらに遅れて、1993年夏と、出だしは必ずしもスムーズではなかった。
甲子園出場5回連続で初戦敗退を経験した高嶋監督。しかし、1993年に初勝利をあげると、1994年春、1997年夏、2000年夏と3度の全国制覇に導くなど、全国屈指の強豪校に育て上げた。
そして現在まで、監督として最多の甲子園通算63勝をマーク。すべての選手に目を届かせるため、1学年10人と定めた少数精鋭部隊を結成して上下関係は少なく、下級生時から部員に豊富な練習機会を与える指導方法は有名だ。
打撃がクローズアップされがちだが、練習はノックなど守備にも多くの時間が割かれている。「高校野球は勝負の厳しさを味わう場」は名言で、常に甲子園で勝つことを目標に置く。当然練習はハードそのもの。守備力を強化しつつも、迫力のある打線となることが多く、2008年夏の甲子園では坂口真規(現巨人)の1イニング2本塁打などで8回表に11点を奪い、逆転した試合もあった。
また、練習意欲がもう一つだった岡田俊哉(中日)に対しては、「プロで勝負しろ」と厳命するなど、上の世界も意識させつつ選手を操縦。教え子には中谷仁(元阪神)、喜多隆志(元ロッテ)、武内晋一(ヤクルト)、西川遥輝(日本ハム)らがいる。県で「一強」状態であることと関係があるのか、プロで活躍する選手は意外に少ない。しかし、最近では岡田や西川が台頭し始めており、池辺啓二(JX-ENEOS)のように、社会人で長く活躍する例もある。ちなみに部に寮はなく、部員のほとんどが県内出身者だ。
思い返せば2008年の秋には、こんな事件もあった。練習試合中に、今の時代でいうところの「体罰」が起きた。それまで繰り返し指導しながら同じミスをした選手に対して、ベンチに戻ってきたところで思わず、高嶋監督の足が出てしまった。これが高野連の知れるところになり、3カ月の謹慎処分が決定した。
その間、「お遍路さん」として四国八十八箇所霊場を巡礼した高嶋監督。当時63歳で、すでに還暦を過ぎていたが、1200キロの道程を全て歩ききった。近年では観光的に、バスやタクシーを利用して八十八箇所を巡るケースもある。しかし、高嶋監督は、一気に八十八箇所を歩き切る「修行」として踏破。この決断も、高嶋監督らしいといえるだろう。