登場曲である映画「ロッキー」の挿入歌『Take You Back』が胸に沁みた。
雄弁ではなく、プレーで語るタイプの仕事人に相応しい曲だ。そして、男は初球を迷いのないスイングで打ち返し、ライト前へ落とす。これが現役最後の快音、通算1928本目のヒットであった。
長年、巧打者として鳴らした谷佳知が、2015年限りでついに引退。オリックスに12年間、巨人には7年間所属し、セ・パ両リーグで安打を積み重ねてきた。今回はそんな谷の現役生活を振り返ってみたい。
谷はアトランタ五輪銀メダルの実績を引っさげ、1996年ドラフト2位でオリックスに入団。チームは「がんばろう神戸」を合言葉に日本一へ登りつめた直後。更なる躍進に向けた旗手として、加入当初から期待が高かった。
1年目は5月25日のロッテ戦でプロ初安打を二塁打でマーク。インコースの速球に対し腕を畳んで捉える流麗な打法は、この時から既に完成品に近かった。また、直後に初盗塁をホームスチールで決める離れ業も。ルーキーイヤーから卓越した野球センスを持っていたことがうかがえる。
2年目以降は中堅手のポジションをがっちりと掴み、左翼・田口壮、中堅・谷、右翼・イチローと、現在でも語り継がれる鉄壁の外野陣を形成。のちのメジャーリーガーを左右に従え、谷はグラウンドを縦横無尽に走り回った。当時の仰木彬監督からは全幅の信頼を寄せられており、『俺の仕事はおまえの名前をスタメンに書くことや』と言わしめたという。
日本一に輝いて以降、徐々に低迷期へ入っていったオリックス。そんなチームの中で、順位を押し上げようと奮闘していたのは、他でもない谷だった。イチローが渡米した2001年は年間52本の二塁打を記録。これは今でも破られていないシーズンレコードだ。続いて田口が渡米した翌2002年は自身初の盗塁王を獲得。成功41回に対し、失敗はわずか4回のみ。成功率91.1%は歴代盗塁王の中でもナンバーワンである。
2003年は藤村富美男氏の持つ日本人右打者記録(当時)に迫る189安打を放ち、最多安打のタイトルを受賞。さらに、翌年まで4年連続シーズン打率3割到達、ベストナイン&ゴールデングラブ賞のダブル獲得を達成。アテネ五輪に臨む日本代表メンバーに選ばれるなど、名実ともにチーム、そしてパ・リーグの顔に君臨した。
近鉄と合併し新たな球団に生まれ変わった2005年以降、谷は故障の影響で成績が低迷。そして、待っていたのは巨人とのトレード。年俸こそ約半分に落ち込んだものの、幼少期から憧れた原辰徳監督とともに戦うこと、背番号「8」を身につけることは大きなモチベーションに繋がった。
巨人を退団した谷に救いの手を差し出したのは、古巣・オリックス。8年ぶりの復帰で、ともにプレーした選手は少なくなっていた。それでも現役を続けるのは、残り79本に迫った通算2000安打を達成するため。また、前回在籍時には成し遂げられなかったリーグ優勝を果たすためだ。
41歳で迎えた2014年シーズン。谷は開幕スタメンを勝ち取るも、まもなく打撃不振に陥る。かつては俊足堅守を誇ったが、ムチを打ち続けた小さな体は満身創痍。打てないイコールそのまま2軍落ちを意味する。それでも、人一倍現役続行に執念を燃やした。一方で、若手の指導も積極的に買って出るなど、ゲーム差なしの2位に躍進する陰の原動力となった。
翌2015年はチームが低迷する中、反撃の切り札として夏場に1軍昇格。7月21日の西武戦では2年ぶりのタイムリーを含む2安打2打点の活躍を見せ、お立ち台に呼ばれた。奇しくもこの日の舞台は慣れ親しんだ、ほっともっとフィールド神戸。かつての庭は名称こそ変われど、チームを引っ張っていた姿を思い出すファンも多くいただろう。
季節は秋へと向かう中、ついに谷は大きな決断を下す。19年間にわたる現役生活に自ら幕を閉じることを発表したのだ。古巣に帰ってからはほとんど安打を積み重ねられず、優勝の美酒も味わえなかった。それでも、引退試合で見せた表情は実に晴れやかだった。最後まで全力で戦い続けた証だろう。背番号と同じ10回の胴上げで盛大に見送られた男の第2章が楽しみである。