元毎日新聞記者で、アマチュア野球を中心に日本の野球界の足跡を後世に伝えてきた松尾俊治氏が肺炎で死去した。91歳だった。
学生時代は慶應義塾大学野球部で捕手として活躍。1943年の学徒出陣壮行試合、いわゆる「最後の早慶戦」を経験した。卒業後は毎日新聞社に入社し、運動部記者として主にアマチュア野球を担当。のちに映画化もされた『最後の早慶戦』を執筆(※共著)したほか、高校野球のトリビア本の走りともいえる『不滅の高校野球』『やぁ これは便利だ!甲子園』など、野球にまつわるベストセラーを数々執筆。
執筆活動以外でも、社会人野球を統括する日本野球連盟で参与を務めるなど、アマチュア野球の発展に尽力した。
大洋、横浜(現DeNA)で長く渉外担当などを務めた牛込惟浩氏が、敗血症のために死去。79歳だった。
早稲田大学卒業後、1964年に大洋球団に入社。シピン、ポンセ、ローズといった球団史に残る助っ人外国人の獲得に尽力。米球界関係者から「タッド」の愛称で親しまれた。2000年に退団すると、MLBアナリストとして解説業や執筆業にも挑戦した。
巨人、ロッテでプレーし、ロッテでは監督を務めた山本功児氏が肝臓がんのため死去した。64歳の若さだった。
「強打の一塁手」の評価を受け、1975年ドラフト5位で巨人に入団。しかし、当時はまだ王貞治の円熟期。試合に出られない日が続いた。また、広島戦ではミスター赤ヘル・山本浩二との比較で「偽こうじ」という心ないヤジが飛ぶことも。
だが、出場すれば結果を出し、巨人第43代4番打者として出場した7試合で、2本塁打、打率.379。また、代打としても活躍し、巨人の代打打率歴代1位となる打率.274を記録した。1984年にロッテに移籍すると、2年連続でゴールデン・グラブ賞を受賞。いぶし銀プレーヤーとして、その実力を見せつけた。
引退後はロッテでコーチと2軍監督を担当し、1999年から2003年までは1軍監督。監督在任中に結果こそ残せなかったが、若手の台頭を促し、2005年のロッテ日本一につなげた。
日本ハムで最多勝と最高勝率のタイトル獲得したこともある工藤幹夫氏が、肝不全のため秋田市内の病院で死去した。55歳だった。
1982年に20勝4敗、防御率2.10で最多勝、最高勝率、ベストナインを獲得。またこの年のプレーオフでは、直前に右手小指を骨折し、出場が絶望視されながらマウンドに上がる奇襲作戦でも話題を呼んだ。だが、この無理がたたったのか、翌1983年に右肩を痛め、1988年には野手転向。再起を目指したが1軍出場は叶わず、同年限りで引退した。
実働はわずか5年。だが、ダルビッシュ有も、大谷翔平も成し得ていない「日本ハム最後の20勝投手」として球団史に確かな足跡を残している。
阪神OBで最高齢だった後藤次男氏が老衰のため死去。92歳だった。
熊本工業、法政大学を経て1948年に大阪タイガースに入団。2年目から4年連続打率3割をマークするなど、好打者として活躍。949試合に出場し、通算打率は.283。また、引退後は阪神で監督を2度(1969年、1978年)務め、1969年は2位、1978年は球団史上初の最下位を味わっている。温厚な人柄から「仏のクマさん」の愛称で慕われた野球人だった。
水戸商業では主将として1952年の夏の甲子園に出場し、選手宣誓も担当。西鉄黄金期を支えた豊田泰光氏が肺炎のため死去した。81歳だった。
1953年に西鉄(現西武)に入団すると、高卒新人ながら打率.281、27本塁打で新人王を獲得。1956年には打率.325で首位打者に輝き、MVPも受賞。1968年には史上初の2試合連続代打サヨナラ本塁打を放つなど、強打の遊撃手として活躍した。
また、現役引退後も辛口の批評で存在感を示し、「オレが許さん!」などのコラムも人気を集めた。
現役時代は広島で活躍し、ロッテの監督も務めた山本一義氏が尿管がんのため広島市の病院で死去した。78歳だった。
広島商業から法政大学を経て1961年、広島に入団。当時は万年Bクラスの広島で長らく4番を務め、1975年、広島のリーグ初優勝を見届けて現役引退。引退後は広島などでコーチを歴任し、ロッテで1982年から2シーズン監督を務めた。
今季25年ぶりにリーグ優勝した広島の盛り上がりに配慮し、約半月後の公表となった。
現役時代は毎日で活躍。引退後は巨人のコーチとしてチームを支えた荒川博氏が心不全のため死去した。86歳だった。
荒川氏といえば、王貞治と二人三脚で「一本足打法」を作り上げたことで有名だ。時には日本刀を使い、素振り部屋の畳が擦り切れるほどの猛練習は「荒川道場」と呼ばれ、成績が伸び悩んでいた王を「世界の王」へと育てあげた。
その後、1974年から1976年途中までヤクルト監督も務めているのだが、「監督」よりも「世界一の打撃コーチ」として球史にその名を刻んだといえる。
巨人などで活躍し、ピンチにも顔色を変えず投げ抜くことから「鉄仮面」と呼ばれた名投手・加藤初氏が、12月11日、直腸がんのため静岡県内の病院で死去した。66歳だった。
1972年にドラフト外で当時の西鉄に入団。すると1年目に17勝を挙げて新人王を受賞した。1976年に巨人に移籍すると、開幕早々の4月にノーヒットノーランを達成。シーズン15勝4敗の活躍で、前年最下位からの優勝に貢献した。通算141勝113敗22セーブだった。
ここで取りあげた方々はほんの一部。また、海外に目を向ければ、イチローの同僚・マーリンズのホセ・フェルナンデス投手がボート事故で死去する悲劇もあった。
彼らの功績・偉業をいつまでも語り継いでいくことこそ、最高のはなむけになるはずだ。野球界の発展に貢献した全ての方に向けて……合掌。
文=オグマナオト