昨年の高橋光成同様に「1位指名公表」で西武が獲得したのは明治神宮大会ノーヒットノーランで鮮烈な全国デビューを飾った豪腕。順調に成長し続けた男は今春、右肩を故障も、その評価は下がることはなかった。
前回、「不安の末の1位指名」
多和田が3年春のリーグ戦。富士大は2戦目の先発投手を毎回、変えていたが、1戦目は多和田が任されていた。リーグ戦終盤の青森大との試合でも当然のことながら1戦目に先発した。6連勝でV街道を走っていたのだが、強風の影響もあり、3対4で敗戦。負けられない富士大は、翌日の2戦目も多和田を先発させた。
「連投で身体も疲れていたので、力を抜きながら投げました。そうしたら、相手打線がハマって、こうすれば抑えられるというピッチングができたんです。それまでは抑えることに必死な感じでした」
1戦目の勝負にとっては不運な強風だったが、多和田にとって、実は幸運の強風だったのだと、今は思える。
多和田が1、2年時は投手コーチとして、3年からは監督として指導する豊田圭史監督は「3年春に変化球でカウントを取れるようになったのが大きい。相手打者を見て投げられるようになった」と話す。投球術を身につけた多和田は「どの球種でもストライクが取れた。理想のピッチングができた」と、4年春のリーグ戦をベストに挙げる。最高の状態で全国舞台へ――、行くはずだった。
5月23日の八戸学院大戦。先発した多和田は5安打1失点に抑え、味方打線が9回に2点を奪って逆転勝ち。3季連続優勝を飾った。喜ばしい日だったが、この試合後、多和田は豊田監督に打ち明ける。
「脇腹から肩甲骨にかけて、痛みが上がってきています」
試合中に感じた痛み。これが長いケガとの戦いの始まりだった。
リーグ戦後はノースローで調整し、大学選手権前には法政大とのオープン戦に1イニングだけ登板した。しかし、大学選手権本番ではマウンドに立てず、チームは初戦敗退。右肩痛は炎症からきており、ゴムチューブや軽めの重りを使った肩周りのトレーニングや下半身強化に励む日々を過ごした。
キャッチボールを再開したのは9月中旬。フォロースルーの時に痛みを感じていたため、「最初のフォロースルーは怖かった」と振り返る。恐怖心に打ち勝ち、1球を投じると、「大丈夫だ」と感じた。10月までに「4、5割の力で届く距離」だという60メートルくらいまで距離は伸びたが、全力投球ができるまでは回復しなかった。
ドラフト候補生にとって、試合でのパフォーマンスが“就職活動”である。痛みを感じた試合が大学での公式戦ラスト登板となり、頭の片隅には、投げられない悔しさとドラフトへの焦りがあった。そんな多和田の気持ちとは裏腹に、球質、能力、完成度といった評価が下がることはなかった。
球持ちがよく、打者の手元で伸びるストレートを生んでいるのは、大きなステップ幅だ。スパイクが28センチで7足半。「(ステップ幅が)自分を越しているピッチャーを見たことがない」という。この広いステップ幅やフォームは誰かに教わったわけではなく、自然と身についたもののようだ。
「小さい頃の写真を見ても変わっていない」と多和田本人が言えば、母・もと子さんも「フォームは少年野球の頃から変わっていないですね。そのまま、身体だけ大きくなった感じ」と証言する。
多和田には兄が2人おり、父・真次さんは少年野球チームのコーチをしていたが、真次さんにもフォームを教わることはなかったという。もと子さんによれば、「いつも自然にボールが転がっている状態」だった多和田家。野球があるのが当たり前の家庭で育ち、普段から仕事を終えた真次さんに「キャッチボールをしよう」とせがんだ。そんな環境で、自分で身につけた投げ方だ。
次回、「中部商時代」
(※本稿は2015年11月発売『野球太郎No.017 2015ドラフト総決算&2016大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高橋昌江氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)