「コノチームガ、イチバン(一番)デス!!」
2005(平成17)年10月26日、千葉ロッテマリーンズのボビー・バレンタイン監督(当時)の片言の日本語が、甲子園球場に響き渡った。ロッテ、31年ぶりの日本一。監督を胴上げするため、我先にとベンチからグラウンドに走る選手たち。そのなかでも、小野晋吾と薮田安彦はバレンタイン監督に特別な感情を抱きながら、マウンド付近までダッシュしたに違いない。
小野は今年の9月19日に、そして薮田は29日に現役引退を発表。2人揃って10月6日の本拠地最終戦となったオリックス戦の試合終了後、引退セレモニーを行った。その2人とバレンタイン監督の関係は、一言では説明できないほど深い。もし2人がボビーと出会っていなければ、引退セレモニーなど開けないまま、地味にプロ野球選手から足を洗っていたかもしれないのだ。
今回のこのコーナーでは、バレンタイン監督との出会いを通じて劇的に変化した2人のプロ野球人生を振り返ってみようと思う。一般社会と同じく、プロ野球界も社員(選手)は上司(監督)を選べない。2人がバレンタイン監督と出会ったことは、間違いなく幸運だった。
◎小野晋吾の場合
【とにかく体が弱かった。プロのレベルの練習に耐えられなかった小野を救った、メジャー流の練習方法とは】
1993(平成5)年のドラフト6位で入団した小野晋吾は、叩き上げで名投手に成り上がったといってもよいだろう。
中央球界では無名であろう静岡・御殿場西高からスカウトされ、さほど注目されないままプロ野球選手となる。そこで小野を待ち受けていたのは、プロの世界の過酷な練習量だった。
体格もそれほど恵まれていなかった小野は当時、体重は70キロほどしかなく、プロの練習についていくのがやっとだったという。また内蔵が悪かったこともあり「なんでこんなヤツをスカウトしてきたんだ」といった悪評もあったそうだ。
当時のロッテGM・広岡達郎は「とにかくプロの体にしろ。徹底的に体づくりだ」と、身体がまだできてない高卒ルーキーに対して、過酷な練習量を課した。来る日も来る日もダッシュや長距離走を繰り返す練習は、当時の小野にとっては完全に逆効果であり、激しい練習で血尿が出たこともあったらしい。元々、プロ入りに対して「自信がない」と渋っていた小野は、ここで潰れる可能性もあった。
それを救ったのは、1995年にロッテの監督に就任したバレンタイン監督に他ならない。根性論がまかり通っていた当時のプロ野球界に、メジャー流の練習方法を積極的に採用したのがバレンタイン監督だった。
「結果をすぐには求めず、大事に育てる」といった、今では当たり前の考え方を浸透させ、その考えに小野は救われた。投球練習での球数制限を設けることも、体力のない小野にとっては有り難かっただろう。小野の独特のヒジの使い方が生み出す「球の回転」は天性のモノが感じられ、ジックリとその長所を磨くべく、ファームで鍛え上げることができたのだった。
その後の活躍はご存じの通り。2000年には先発ローテに定着し、日曜日に登板機会が多いことから「サンデー晋吾」と呼ばれ、この年は13勝5敗で最高勝率のタイトルを獲得。
前述した2005年の優勝時には先発、中継ぎとフル回転してチームの日本一に大きく貢献した。
なんと言っても小野の特長は、えげつないほど曲がるシュートにある。その独特のボールを動かす技術は、小野が長きに渡ってプロ野球で活躍できた“メシの種”であり、「長所を伸ばす」、「ボールを動かす」メジャー流の指導方法が実を結んだ結果といえるだろう。選手の潜在能力を引き出すことに長けていたバレンタイン監督との出会いは、小野にとって忘れることができないはずだ。
【先発失格の烙印を押されたドラフト2位の即戦力投手が、プロで生きる場所を確保するまで】
「選手の潜在能力を引き出す」と言う意味では、もっとわかりやすいのが薮田安彦とバレンタイン監督の関係だ。1995年のドラフト2位で新日鐵広畑から入団した薮田は社会人出身ということもあり、入団直後から即戦力投手として期待を集めていた。当時は先発投手として起用され、1、2年目はまずまずの成績を収める。しかし入団3年目あたりから、急激に伸び悩みをみせるようになる。3年目は16試合に先発するも2勝9敗。4年目は10試合に先発し5勝4敗と、パッとしない成績が続いた。
そんな薮田を劇的に変化させたのが、2004年からロッテに復帰したバレンタイン監督だった。先発では結果が出ない薮田を思い切って中継ぎで起用し、これが見事にハマった。元々、球の力は一級品で、精神面さえ強ければ…という印象があった薮田。バレンタイン監督はセットアッパーという役割を与えることで自信をつけさせ、メジャー流のメンタルトレーニングを採り入れることで、成長を促した。チーム内では薮田、藤田宗一、小林雅之で形成される救援トリオ「YFK」が誕生し、冒頭の日本一を決めた試合でも薮田は8回から登板し、セットアッパーとして見事にその役目を果たしたのだった。
自信をつけた薮田は、2006年には第1回WBCに出場して日本の優勝に貢献し、2007年には58試合に登板し34ホールドを挙げてタイトルを獲得。2008年にはなんと海を渡ってカンザスシティ・ロイヤルズに移籍し、2010年にロッテに復帰して2度目の日本一にも大きく貢献した。
個人的には第1回WBCでの登板が深く記憶に残っている。アメリカ戦で中継ぎとして登板した薮田は、あのA.ロッドから見事、三振を奪った。そのシーンを見た瞬間、先発してKOされる度にうなだれて、ベンチに逃げるように帰る薮田はもういなくなった…と感じたものだ。
薮田の最大の魅力は、そのメンタル面の強さだろう。リリーフに失敗しても、次の試合に向かっていく勇気、特別にスゴイ球種があるわけでもないのに己を信じて一生懸命、打者に向かって淡々と投げ込み、ピンチを抑える精神的なタフネスさは、セットアッパーが確立された昨今でも、薮田ほどの投手は滅多にお目にかかれない。
今シーズンのロッテはストッパーに定着した2年目の益田直也が試合終盤に打ち込まれるケースが目立った。そんな益田に、薮田は「切り替える」ことの重要性を説いたという。毎日のようにマウンドに上がるリリーフ投手はその時々で打たれも、翌日に引きずってはならない。気にしていたらどうしようもないんだぞ…と。
数々の修羅場をくぐり抜けた薮田は、メンタル面の大切さを後輩に伝え、自らが劇的に変わった要因でもある“精神力”の重要性を説いたそうだ。
冒頭で述べた2人の引退セレモニーは感動的だった。QVCマリンフィールドのマウンド上で「小野vs福浦和也」、「薮田vsサブロー」の1打席勝負が行われ、2人とも三振を奪った。
薮田は「ロッテに入って16年間、いろいろなことを経験させてもらった。自分をここまで成長させてもらって、2度の日本一の喜びを味わえたことが最高の思い出です」と、バレンタイン監督をはじめとする周囲への感謝の気持ちを述べた。
かたや小野は「20年間マリーンズでプレーできたことが、自分にとっての誇りです。悔いなく最後までやりきることができました」と、目を潤ませて挨拶した。
2人の今後について、薮田は未定だが、小野はスカウトに就任することが発表された。波瀾万丈であった2人のプロ経験を活かして、是非とも素晴らしいプロ野球選手を育てて欲しいと、切に願う。
■ライター・プロフィール 鈴木雷人(すずき・らいと)…会社勤めの傍ら、大好きな野球を中心とした雑食系物書きとして活動中。"ファン目線を大切に"をモットーに、プロアマ問わず野球を追いかけている。Twitterは@suzukiwrite。